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ハンガリー動乱と今日の日本

ハンガリー動乱50年  民衆が求めた理想とは             池田浩士

 一九五六年十月二十三日、「ハンガリー動乱」と呼ばれる歴史的事件が勃発した。首都ブダペストでの労働者・学生による反政府デモが、秘密治安警察の機関銃乱射をきっかけに、大規模な反乱に転じたのである。東西冷戦下のハンガリーは、米国主導の「北大西洋条約機構(NATO)」に対抗して五五年に締結された「ワルシャワ条約」の加盟国であり、ソ連のいわゆる「衛星国」のひとつだった。デモ参加者は、ソ連に追従する政府を糾弾し、首相ラーコシの追放、ソ連とのすべての関係における平等、前年ソ連の強圧で罷免されたイムレ・ナジ前首相の復権などを要求した。――翌十月二十四日、ナジが首相に任命され、民衆の要求は実現に向かって歩みはじめたかに見えた。だが、同時にソ連軍が出動し、弾圧に乗り出した。民衆は、戦車主力の圧倒的な軍事力に抗する闘いを余儀なくされた。十一月四日、ソ連軍が首都を制圧し、ナジ首相はユーゴ大便館に亡命した。ソ連に忠実な新政府が任命された。ナジ処刑をソ連が発表したのは、五八年六月のことである。

 「ハンガリー動乱」で決定的に重要な役割を果たしたのは、「ペテーフィ・サークル」という知識人を中心とするグループだった。反政府デモを呼びかけ、要求のスローガンを提起したのも彼らだった。彼らはまた、工場労働者たちが掲げた「労働における自主管理」の要求と連帯した。その「ペテーフィ・サークル」の精神的支柱の一人は、思想家ジェルジ・ルカーチだった。彼は、かつて第一次大戦の終結後、一九一九年春から夏にかけてわずか百三十三日だけ存在したハンガリーの革命政権、ロシアに次いで世界史上二番目のソヴィエト(評議会)政権で、教育人民委員(文部科学相)として、想像カと自発性を重視する文化政策を試みていた。その彼が、ナジの政府で再び同じ教育大臣となった。敗北後、ルーマニアに連行し幽閉したルカーチを、ソ連はついに殺すことができなかった。

 スターリン主義と称される全体主義的な体制に、徒手空拳ともいうべき状態で抵抗し、当然のことながら敗北したこのハンガリーの民衆運動は、孤立した出来事ではなかった。ソ連の独裁者スターリンは五三年三月に死亡していたが、その後も、冷戦の中でソ連の支配体制は維持された。だが、スターリンの死の三カ月後、共産圏における最初の民衆暴動が、東ドイツの首都ベルリンで勃発した。三年後の五六年二月、ソ連共産党第二〇回大会で、ついにスターリン批判が行われた。・・・・・・その三週間あまりのち、ポーランドで反政府暴動が始まった。「ハンガリー動乱」は、これら一連の抵抗のひとこまだったのだ。そして、敗北に終わったこのひとこまは、やがて十年以上の年月を経て再生する六八年の「チェコ事件」、つまり「戦車社会主義」に抗する「プラハの春」によって、ついにその二十三年後の「ソ連崩壊」にまで行きつくことになる。

 社会主義社会、さらには共産主義社会の創出によって、差別も抑圧も搾取もない自由と平等と友愛の世界を実現する――という理想とは裏腹に、その理想が無残にも挫折させられた一時代、ソ連社会主義体制の一時代に、ハンガリーの民衆もまた自らの主体的行動によって、その時代に抗し、その体制に終止符を打つ一翼を担ったのだった。それから半世紀が過ぎたいま、だがそれでは「社会主義体制の崩壊」で現実は改善されたか・・・・・・。ソ連という対抗軸を葬り去った唯一の超大国によって、世界は殺戮(さつりく)と混迷の渦に投げ込まれている。その渦の中で、少なくとも日本の私たちは、超大国に追従する政権に歓呼を送り、自由と自主性とかけがえのない生命の価値よりも国家の意思を上に置いて恥じない世論の一員として、生きている。へだたりは、五十年という歳月だけではないのだ。

    (いけだ・ひろし/京都精華大教授<ドイツ文学>。1940年生まれ。慶応大博士課程修了。京大教授を経て現職。著書に『ルカーチとこの時代』など。

    毎日新聞 06/11/5()朝刊「21世紀を読む」

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