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体罰問題解決のために   文科省政務官の

<13(H25).1.13 記>学校における体罰を定義すると「(一部の教師が)罪がないにもかかわらず罰するというかたちで生徒(人間)に身体的苦痛(暴力)を加えることで自分の意に沿うように生徒(人間)を仕立てあげようとする行為である」とすることができます(体罰を是とする教師にあっては、生徒が試合中にミスをすることは「決して許されないこと=罪」なのです)。

 上記の定義の「生徒(人間)」という部分を「動物(犬や猿)」と置き換えると「調教」の定義となります(調教師にとって、犬や猿が調教中にミスをすることは「決して許されないこと」であり、それを体で覚えさすために犬や猿に身体的苦痛を加えます)。つまり体罰とは、生徒(人間)を対象とした調教であり、生徒を人間として尊重しない(基本的人権を尊重しない)行為です(この川柳群の第一句ご参照.jpg)。

 いじめ問題(基本的人権が尊重されている学校ではいじめ問題は起きない)と同様、体罰問題の解決の道は、学校を基本的人権が尊重される場(生徒も教職員もみんなが互いに人間として尊重し尊重される学校=楽しい学校)にしていくことです。これは、現場の教員が、体罰を是とする意見(文科省政務官典型的な体罰肯定論(強くなるためには一定の体罰が必要).pdf大阪市長の典型的な体罰肯定論(いつものように状況を見て発言が変更されていますが).jpg<注1>)とも闘いながら歯を食いしばってやらなければならないことです。それが教員の仕事です。しかし、そのような仕事(学校を基本的人権が尊重される場として維持する。または、そのような場に回復していくこと)ができないような方向に生徒・教師を取り巻く教育環境は悪化するばかりです。教頭法制化・主任制導入・全国学力テスト実施・勤務評定(教員評価制度)導入・管理職補佐職設置・教員免許更新制導入・民間校長制<注2>導入・教育基本法改変・(教職員の議論・決定の場であった)職員会議の(校長への単なる)諮問機関化・校内人事選挙制禁止・教員多忙化政策など。

   <注1>典型的な体罰肯定論:体罰は暴力とは違うのであり、体罰(=基本的人権の侵害)は教育(=体罰肯定論者にとっては調教)のためなら一定必要である、と主張するもの。 

   <注2>民間校長制:利潤追求のためにはリストラ・不払い残業・過労死労働などもやらねばならない厳しい(=基本的人権無視をも辞さない)企業社会などを生き抜いてきたとされる人材が持つ活力・論理を(基本的人権の大切さを教える)教育の場にも導入することを目的とする制度。そんな目的だから民間校長に教員免許は不要。教員免許更新制(定期的な更新を忘れた教員は失職する)が導入される一方で、教員免許を持たない人間(教育実習すらしたことない、教育に関するまったくの素人であると法的にも現場の教員からも見なされている)を「学校教育の要」に置くという民間校長制(大型トラック無免許運転のようなもの)が導入されている。かかる支離滅裂な教育行政により教育現場は混乱している。(無免許でも運転技能があるという理屈を通すなら免許制度自体が崩壊する.jpg

 さらに、今回の体罰死事件.pdfが起こった大阪市では、教育環境を悪化させるとの批判の強い教育基本条例を是とする市長(つまり基本的人権意識に疑問符が付く市長)が体罰事件を機にさらに行政による教育統制を強化しようとしています。これにより教育環境がますます悪化することが懸念されます。

追伸113.1.17):大阪市長はこれまで典型的な体罰肯定論を唱えて体罰を容認・助長して今回の体罰事件が起こる原因を作ってきました。にもかかわらず状況をみて(言動を一変させるといういつものやり方の通り)体罰否定に一転、事件の起こった当該高校の当該学科の入試中止と当該高校の教員総入れ替えを要請するというヒステリックな独善的・独裁的対応を行って教育現場に大混乱をもたらしています。大阪市長が教育に関して言動し、教育統制を進めれば、必ず教育環境が悪化するということが実証されたのですから、大阪市長は自分が体罰事件が起こる原因を作ったことを反省した上で教育統制をやめ、教育問題の解決は現場の教員にまかせるべきです(大阪市長は、教員がダメだから「俺=行政」が教育に介入すると主張してきましたが、それが間違いで、「俺=行政」は教員が上記の本来の仕事が出来るように物的な条件整備だけに専念すべきです)。

追伸213.1.18):「気持ちがだれからも踏みにじられず、動揺・混乱なく生きることができること」-基本的人権をこのように定義することもできます。そうすると、大阪市長が当該学科の入試中止を突然言い出してこの学科入試への出願を約1ヵ月後に控えた受験生やその保護者、当該学科の高校生などの気持ちを踏みにじり、彼らに衝撃的な動揺・混乱をもたらし人生をくるわそうとしていることは、まさに基本的人権を否定する行為です。体罰(=基本的人権の否定)を撲滅すると称して基本的人権を否定する。これが大阪市長のやり方です。現在、少なくない中学生を追い詰めているものには体罰問題のほかにもいじめ問題不登校問題などがありますが、「15の春を泣かすな」という警句の通り「高校入試」も中学生を追い詰める要素を多分に持っています。当該学科の入試中止発言によって追い詰められそうになっている生徒がきっと何人かいるはずです(この生徒たちになんらか悲劇が起こったとき、体罰自殺事件の遺族との面会後に言ったのと同じ言葉をまたいうのでしょうか-「今は猛省している」と)。こんなことすらわかっていないこの市長に教育について語る資格は微塵もありません。

 昨日(1月17日)の記者会見でこの市長が「ひとつの受験ができないから人生終わりなんてことはない」と言い放ちました。中学生の人生が踏みにじられても仕方ないというこの発言とそれを言い放った公人を決して許すことは出来ません。

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 昨年の10~12月にフジテレビ系列でその名もずばり「高校入試.mht」という、高校入試当日と前日の2日間の出来事を13話かけて描く実験的ドラマが放映されました<右写真:ドラマの1場面(入試会場の教室の黒板に張られた文)>。奇しくも、ひとつの受験が人生を終わらせることもあるということを告発したドラマでした。大阪市長は総選挙でこのドラマを見る暇はなかったでしょうが、このドラマのキャッチコピーは「だからね、高校入試なんて、ぶっつぶしてやる。」でした。このコピーに補足語句を追記すればこの市長のキャッチコピーになります-「だからね、(体罰が行われたような)高校(の)入試なんて(このまま実施しようとするなら、予算不執行という強行手段を行使して)ぶっつぶしてやる。」

 <ちなみに、このドラマの最終回、(拠所無い訳あって入試を混乱させた)責任を取ろうと辞職願を持ってきた教員に向かって、それを受け取ることを拒否しながら自らが一切の責任を引き受ける覚悟をしつつ校長が次のように言います-「(入試混乱について)何らかの罰則があるとしても、それを受けるのは校長である私の役目だ。それが上に立つ者の役割なんだ。」>

追伸313.1.19):日本のさる公立高校の尊敬すべき校長はさる年度当初の職員会議で次のように述べました-「教育内容や学校経営の一切について教員皆様方(を信頼して皆様方)にお任せいたします。どうか自由に思う存分にやってください。いかなる結果になろうとすべての責任は私が負います。」 これが、追伸2で述べた校長の態度とともに、(企業社会ではともかく、人間相互の信頼に立脚すべき教育界では)上に立つべき者の正しいあり方です。

 なお、教育現場→教育委員会→文科省・国会/教育現場→地方議会という2つのルートで現場教員の要望が上に上がり教育環境の整備が行われるべきなのに、現在の日本では逆に文科省・国会→教育委員会→教育現場/地方議会→教育現場 という2つのルートで教育現場にそぐわないものが降りてくることがあります。上述の尊敬すべき校長は、かかる妨害物から教員を守る盾となることで教員の力が削がれないようにするのが校長の役割だと覚悟を決めておられたのです。

 教育行政の独立性(教育委員会.mhtに教育行政を担当させることにより首長への権限の集中を防止し中立的・専門的な行政運営を担保する)によりそもそも大阪市長は教育行政の責任者ではありません(教育委員長や教育長が責任者です)。だからこそ、大阪市立高校で生徒に犠牲者が出ても何の責任も取ろうとしていないのです。それどころか、責任を市教委や当該学校の教員のみならず、当該学校の生徒や保護者にまで押し付け(この市長は昨日の市議会文教経済委協議会で「(体罰を)誰も止めることができなかった。(中略)保護者も厳しい指導があると容認しながら、それでもクラブでの勝利をめざして(大阪市立)桜宮(高校)に入ってくる。生徒も保護者も当事者意識を持って、冷静に立ち止まる意識が必要だ」と答弁しています)、旧日本軍隊なみに連帯責任(入試中止・教員総入れ替えとそれらによる混乱を生徒・保護者に受け容れさせること)を負わせようとしています。大阪市長が教育行政に(法的には責任をとる立場にはないが、それに)もどうしても本気で責任を持ちたいと思っているのであれば、自分が体罰肯定論を唱えて体罰死を招いたことを心から反省し、「市立高校の再建の取り組みは現場の教職員の方々にお任せいたします。どうか自由に思う存分にやってください。いかなる結果になろうとすべての責任は私も負います。」というべきなのです。これが上に立っている(と思っている)大阪市長の正しい態度です。

 <Q.現場の教員にまかせて大丈夫? A.大丈夫です。というより、体罰問題に限らずいじめ問題不登校問題もそうですが、それらを解決するには(体罰問題・いじめ問題・不登校問題を真に理解している)現場教員の力を活用するほかに方法はありません。その力を活用するどころか、上記のようにその力を削ぐようなことばかりが行われてきたので、一向に問題が解決しないのです。現場教員が自由に思う存分に力を発揮できるような教育行政が必要です。なお、現場教員が力を発揮することの中には、教員としての資質に問題ある教員(体罰を肯定する教員、いじめられていることを相談しにきた生徒に「いじめられるお前にも問題がある」などという教員、不登校生徒に不用意に登校を促すことをする教員、などなど)を「何とかする」ことも含まれます。>

追伸413.1.25)

体罰問題への追加視点1:<橋本市長が入試中止を(大阪市教育)委員5人に求めた・・・・・。委員は桜宮高の生徒や教員、PTA関係者らの話を聞き、橋本氏の提案を受け入れるか否か検討を重ねた。桜宮の生徒には「あいさつがきちんとしている」「夢をもって進んでいる」など好印象を持つ委員が多かったが、教員に対しては、土日もなく学校に出てくる熱心さの一方、生徒が自殺したことに「当事者意識が薄い」「勝利至上主義が出過ぎている」と違和感を持つ委員も少なくなかったという。・・・・・開示された桜宮高の生徒と教員へのアンケート結果。複数の部活で継続的な体罰があった・・・・・。>(朝日新聞 13.1.22)この記事から見えてくる桜宮高校の教員像は「考えるのをやめた人(=「兵士」)としての教員」である。兵士は、戦場で「考えるのをやめて」ひたすら命令通りに行動する。自分のそばで人が死んでいくことの意味・理由等をいちいち考えていては自分に課せられた任務を遂行できないからである。今、大阪府市の公立高校は私学高校との競争と公立高校間競争をさせられている(教育への新自由主義・成果主義の導入)。「大変な時代」(互いに熾烈な競争をすることによってこそ社会は活性化するとされる時代)にあって公立高校だけが「ぬくぬくとしている」ことは許されないという理由で。そして、「特色のない人気のない高校」は定員割れするぞ。定員割れが3年程度続けば廃校に追い込むぞという脅しが強権的な行政の長からかけられている。そんな中、特色を出すための最もてっとり早い方法が、有名大学への進学率を高めるかスポーツを強くするかである。その方法を教委の後押しを得て採用した高校の教員はひたすら「兵士」として、有名大学への進学率を高めるという任務、または、スポーツを強くするという任務を遂行する。「高校は有名大学への進学のための予備校であっていいのか?」「スポーツに強い人間をつくるために体罰は許されるのか?」などと考えていては任務を遂行できないから何も考えなくなる。体育系の科を2つも設置してスポーツの強い盛んな学校という特色を前面に掲げて学校間競争に打ち勝とうとしていた桜宮高校では、体罰が日常化・常態化していた。この高校の教員は考えなくなっていたから平気で体罰を行い(本来の教員であればいとおしいと想う生徒の顔面を何十発も殴る教員さえいた)、以前は体罰に否定的であった教員もそれをみても何も感じなくなっていた。また、過労死にもつながる人権無視の土日返上労働にも何も考えていないから疑問を感じなかった(本当は土日返上労働は人権無視労働である。こんなことをいうと、土日返上労働は企業社会では当たり前。それを批判するのは公務員が甘えているから、という罵声が浴びせられる。この公立学校教員バッシングも教員を考えさせない状態にする1因となっている。なお、土日返上労働に疑問を感じていないらしい教委委員も人権意識が希薄である)。本来、教員の仕事は生徒が学力をつけることを手助けすることである。学力とは「自ら学ぶ力」「学ぶことで身についた力」「学んだことを生かす力」そして「学んで考える力」である。その教員の多くが「考えない人=「兵士」」に変身させられている。上述の記事によれば、桜宮高の教員は「生徒が自殺したことに当事者意識が薄い」とのことである。「当事者意識が薄い」のは「勝利至上主義が出過ぎて」考えることをやめているからである。しかし、体罰問題に限らずすべての教育問題の解決は、結局、現場の教員の力によるしかない。桜宮高校にも、考えることを忘れていない教員がいるはずである。その教員は、(教職員の議論・決定の場であるべき)職員会議の(校長への)単なる諮問機関化、教員評価制度など教員の力を削く一連の教育行政により発言できない状態、無力な状態、自由に行動できない状態に置かれている。こんな教員の活力をよみがえらせることが今求められている。それができれば、考えることをやめた教員も再び考える力を復活させることができる。大阪市立高校を立て直す道はそれしかない。にもかかわらず、大阪市の現状は、体罰(強権的手法=人権無視の手法で人間を屈服させる行為)肯定論を唱えて体罰を容認・助長して体罰死を招いた行政の長が、同じ手法(強権的手法=人権無視の手法)を用いて体罰教員に関係ある体育系学科の入試を中止させた。これは、追伸3でも述べたように責任を当該学校の教員のみならず、当該学科の生徒や保護者にまで押し付けてこの学科を全否定するもので、予算不執行という脅し(強権的手法)をかけて市教委に決定させ、この学科入試への出願を準備していた受験生やその保護者、その学科の高校生などの気持ちを踏みにじる、つまり人権無視の行為である。人権を無視されることは追い詰められることである。何人もの生徒が追い詰められている。.pdfが、大阪市の教員は追い詰められた生徒をどうすることもできない状態に置かれている。強権的手法よる教育介入(というより教育支配)が続く限り大阪市の教員はますます「考えない人」になっていくだろう。人が死んでいくことをどうすることも出来ない戦場で生き延びるためには「兵士」(考えない人)にならざるを得ないように。

体罰問題への追加視点2:今回の体罰死事件.pdfを起こした大阪市立高校(公立高校)の保健体育科の教員は体罰という方法(強権的な方法)を用いてバスケットボール部を全国大会に出場できるまでに強くした。一方、この教員.pdfも同じく公立高校の保健体育科の教員であるが、普通の大阪府立高校のラグビー部を体罰ではなく「楽しむ」という方法(リベラルな方法)で全国大会に出場できるまでに強くした。同じ公立高校の保健体育科の教員でありながら運動部の指導方法がなぜ違うのか。両者のおかれていた教育環境が違うという点がまず挙げられる。前者の勤務していた高校はスポーツの強い盛んな高校を看板にしていたため勝利至上主義(注)が出すぎる学校であったのに対し、後者の勤務していた高校は普通の高校であった。普通の高校とは、有名大学への進学率を高めるために生徒を受験勉強に駆り立てることもせず、スポーツの強い盛んな高校にするために生徒をスパルタ式に鍛え上げようともしないなど、「生徒の自主性・自発性・創造性を重んじ、生徒が『(様々な意味で)楽しい』高校生活を過ごすことで成長していく。そして、卒業式の日にはみんなが、楽しかった。この高校に来てよかった、といいながら巣立っていく」という普通の教育(当たり前の教育、節度ある教育=節度ある人間として成長するのを手助け・見守る教育)をする高校のことである(こんな教育をする学校では、体罰死はもちろん、いじめ・不登校もおこらないが、体罰肯定論者にとっては、こんな教育は生徒を甘やかすもので歯がゆくてたまらない)。一方が強権的な方法を用い、一方がリベラルな方法(学習コーチング.jpgともいう)を用いる違いが生じる理由として更に挙げられる点は何か。それを考慮することも必要ではないだろうか。(なお、今回の体罰死事件.pdfを起こした教員とこの体罰事件.pdfを起こした教員は同じ大学の出身であるのは偶然だろうか。この大学の学長へのインタビュー記事.pdfによれば、同大学では1990年には38.6%の学生が体罰を受けていたという。)



体罰問題への追加視点3:「私は13歳の時、1回だけ体罰を受けた。社会学の授業で米国人の先生に髪の毛をつかまれた。私は『また同じことをやったら、許さない』と先生に言った。それが豪州では普通だった。何が許され、何が許されないのか。豪州では小さい時から、その線引きを親が教え込む。私は、あのことは絶対に忘れない。・・・・・日本のラグビー文化を学ぼうと、テレビドラマ『スクール・ウォーズ』を見た。高校の先生が生徒をたたいていた。私は選手に対する尊敬の念がないと思った。短期的にはいいかもしれない。でも、ああいう行為が長期間にわたって、いい影響をもたらすことはない。」<ラグビー日本代表 エディ・ジョーンズ ヘッドコーチ(52)>(朝日新聞「スポーツと体罰」 13.1.23)このエディ・ジョーンズさんの話は、体罰がなくなるには、子どもと教員とが人格的に対等となっていること(子どもの人権が尊重されていること)が必要である、ことを示しています。体罰問題が解決しない自治体では、子どもの権利条例の発動または制定・施行も必要です。

  (注)勝利至上主義:学校で教科として体育・スポーツを教えるのはフェアプレーをはじめ次世代に伝えていくべき価値を含んでいるからということが理解できず、勝敗・順位・記録など競争原理に支配されている考え・やり方

体罰問題への追加視点4

追伸513.1.28) 訂正(13.1.29) 訂正(13.2.26)

 現状において教師が生徒に叩く・殴る・蹴るの身体的苦痛(暴行)を加える場合は次の3通りあります。

  ①生徒が不正の侵害を犯していないのに身体的苦痛を加える。例:試合でミスをした。テストで悪い点をとった。

  ②生徒が不正の侵害を犯したとき(例:ほかの子をたたいた。物を盗んだ。)、説得して納得させるという手段を十分に行わずして身体的苦痛を加える。

  ③生徒が不正の侵害を犯したとき、説得して納得させるという手段を十分におこなった(注)にもかかわらず不正の侵害がやまず、身体的苦痛を加えてしまった。

    (注)説得して納得させるという手段を十分におこなったにもかかわらず不正の侵害がやまない原因(生徒が発達障害である、など)を十分に検討することも、説得して納得させるという手段を十分におこなった、に含みます。

 この3つの場合いずれも体罰であり、法令(学校教育法)で禁止されています。

 それでは、生徒が不正の侵害を犯したとき、説得してもなかなか納得させることができなかった場合は、次にどんなことができるでしょうか。学校教育法は次のように定めています。

(1)懲戒

 第十一条 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。

  引用者:懲戒と体罰の区別があいまいです。そのため、学校教育法第11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰に関する考え方<文科省>のように政府が一部の体罰にお墨付きを与えたかのような通知が出されました。この通知は今も懲戒と体罰の区別の基準となっています。懲戒とは「叱る」ということでなければなりません(追伸13 ご参照)。また、限定付きであっても体罰を容認することがあってはなりません(追伸12 ご参照)。

(2)出席停止

 第三十五条 市町村の教育委員会は、次に掲げる行為の一又は二以上を繰り返し行う等性行不良であつて他の児童の教育に妨げがあると認める児童(引用者注:小学生)があるときは、その保護者に対して、児童の出席停止を命ずることができる。

   一 他の児童に傷害、心身の苦痛又は財産上の損失を与える行為

   二 職員に傷害又は心身の苦痛を与える行為

   三 施設又は設備を損壊する行為

   四 授業その他の教育活動の実施を妨げる行為

 第四十九条 第三十五条の規定は、中学校に準用する。

   引用者:出席を停止させて、学校でない場で「説得・納得」を行うことは有効です。

追伸613.1.29):体罰は、次のように学校制度の発足以来禁止されてきました。

 ①1897年の教育令46条「およそ学校においては生徒に体罰(中略)加ふべからず」

 ②1900年の小学校令改正「小学校長及び教員は教育上必要と認めたときは児童に懲戒を加ふることを得ず」(現在の学校教育法第11条「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない」と大差ありません。


追伸7
13.1.29)

 体罰をなくすためには、①首都大学東京の佐々木特任准教授の進言.jpgによれば、大学の教員養成過程で「学習コーチング」科目を必修にしなければなりません。つまり、中学・高校の部活動を指導するものは、「学習コーチング」科目も修得したものに与えられる教員免許を持つ教員でなければなりません。また、②宮城教育大の神谷准教授の進言.pdfによれば、中学・高校の部活動は子ども主体の自治活動にしなければなりません。つまり、部活動を「自治」という意味も含まれる「クラブ」の語源に近づけ、生徒が自分たちで運営して練習し、自分たちで強くなるという方針に立ち返り、教員はそれをサポートする役割に転じる必要があります。それをやろうとすれば、日本女子大学の島田教授の進言.jpgのように監督がいることはマイナスになります。

 現在の高校野球では、球児の1投・1打まで監督の絶対的な指揮のもとにおかれることが多い。このようなありようが体罰が行われる恐れのある土壌を作り出しています。この状態を改善するためには、①これまでのような監督はなくし、②指導する教員が「学習コーチング」を実践しなければなりません。しかし、今、このような動きに逆行するとんでもない動きが進行しています。「元プロ、すぐ高校野球監督に 14年度にも 教員免許不要.pdf」がそれです。これは、無免許で数十人の球児を乗せた大型バスを運転するに等しく危険極まりないことです。すなわち、高校野球の体罰化=調教化(これが言い過ぎなら、体罰を生じる恐れを増長させる更なる球児のロボット化、勝つための道具化)を進めます。これに対してマスメディアはプロアマ間の歴史的な雪解け.jpgなどといって歓迎しています(後ろめたいのか、ちょっぴり注文はつけていますが)。一方で、体罰抑止キャンペーンを張っているにもかかわらず。


追伸8
 体罰がなくならないのは「勝利至上主義」の側面が強いからではないか。高校の全国大会で盛り上がるのは日本独特の文化で、海外では考えられない。常にマスコミが報道し、ナンバーワンを目指す中で、指導者は勝たせることができなかったら、やめさせられるという状況も影響しているのではないだろうか。<体罰問題 : 私の視点/中 Jリーグセレッソ大阪U18監督・大熊裕司さん>(毎日新聞 2013年1月21日)

追伸9 広島県教委が「体罰根絶マニュアル」(研修資料:教職員による不祥事の根絶(体罰等根絶)<広島県教委>.pdf) 作成(報道記事.pdf

追伸10 Q.部活動での体罰が原因で亡くなった生徒は、なぜ限界を超えるまで服従したのでしょうか? A.将来(学校斡旋就職・大学推薦入学)を人質に捕られていたからです(そのことを含む進言記事.pdf)。勝ち抜くために人質を利用する戦国時代のようなやり方。これは最早、部活動が教育活動ではなくなっていることを示しています。


追伸11 この進言記事.pdfによるとスポーツの現場では暴力に頼らない指導論が確立されていません。ということは、スポーツの現場では暴力に頼る指導が行われてきたということです。そう考えれば、オリンピックから中学・高校の部活動まであらゆるスポーツの現場で体罰(暴力)が横行してきた理由がわかります。スポーツの指導論を研究・教授し、また、スポーツの現場での「指導者」を輩出してきた体育大学はどんな研究・教授をしてきたのでしょうか。残念ながら今回の体罰事件.pdfこの体罰事件.pdfの関係教員は体育大学出身者でした。

追伸12(13.2.3)

(1)体罰とは : 身体に対する侵害(殴る・叩く・蹴る等)や肉体的苦痛(正座・直立等特定の姿勢を長時間にわたって保持させる等)を与えることにより生徒を有無も言わさず=理屈抜きで従わせる行為をいいます。

 それは、次の2つの理由で許すことが出来ません。

 ①喜びを与え苦しみ(体・心の痛み)を除くのが人間の尊厳を尊重する態度であるのに、それとは逆に苦しみ(痛み)を与える体罰は人間の尊厳を否定する行為であるから。

 なお、精神医学によると、体の痛みも心の痛みも脳によっては変わりはありません(そのためにうつ病の薬が肉体の痛みにも効き、逆に本来は鎮痛剤であるモルヒネが心の痛みも取るというように、薬はどちらの痛みにも作用します。「断腸の思い」のように心の痛みを体の痛みとして表現する言葉もあり、両者は通じ合っています)。ですから、試合に負けた生徒に「死ね!」などと心に痛みをあたえる言葉を投げつけることも体罰と同様に人間の尊厳を否定する行為であるので許すことはできません。

 ②体罰はほとんどの場合、教師が生徒を屈服させることができる身体的力(教師の方が腕力が勝る)または従属関係(従わないことを持って何らかの不利益をもたらすことが出来る、強圧的手法が通じる)がある状態、またはその両方がある状態で行使されます。つまり、教師と生徒が対等でない状態のもとで行使され、強者が弱者を抑圧する行為であるから。

(2)判定方法 : 教育現場では生徒への対応が体罰か指導かで悩んでいる教員も多い。(1)を踏まえたその判定方法は次の通りです。

 ①対応が生徒に痛みを与えているものはいかなる場合も体罰である(当然ではあるが、正当防衛や生徒の安全を守るための緊急処置は除く)。心に痛みを与える暴言も体罰と同様の許せない行為とする。また、体への痛みは与えないが、心への痛み(侮辱)を与える身体に対する侵害(襟をつかむ・あごをつかむ等)も体罰です。

 ②痛みを与えているかどうか判断に迷うときは、その対応が次の場合も自分は出来るかどうかを想像し、出来ない場合は体罰であり、出来る場合は体罰ではない。

    次の場合とは:生徒が自分よりもはるかに身体的力(腕力)がまさり、かつ、生徒が自分とまったく従属関係がない場合。つまり、その対応をすることにより、反撃されて自分がダメージを受け、ひどい場合には半殺しされる等の恐れがある場合。(痛みを加えられた場合は反撃するのが人間の本能であるが、生徒は体罰を受けても、教師の方が身体的力があるか、教師との間に従属関係がある場合は我慢して反撃しない。そうでない場合には反撃する。体罰はこの反撃が予想されない場合に行われる。自分より生徒の腕力が上回り、かつ、その生徒とに従属関係がない場合は、体罰を加えようとすると、逆に殴る・蹴る等の反撃を受けるので体罰の行使は不可能)


(3)ケーススタディ : 次の中学校でのケース(13年2月のさる新聞での、これは体罰にあたるのかどうかという問いかけの投書)で、(2)の判定方法で判定してみましょう。

 ①授業の邪魔をした生徒を教室から出そうとしたが指示に従わないため腕を引っぱった⇒軽く腕をつかみ引っぱる(ようなことは日常生活で普通におこなわれることであり、それ)だけでは痛みは与えないので体罰ではありません。勿論、痛みを感じさせるほど強く腕をつかみ引っぱれば体罰です。

 ②喫煙していた生徒がたばこを渡そうとしなかったので手をひねり上げた⇒手をひねり上げるのは痛みを与えるので体罰です(渡しなさいと言って渡さなかったからといってわざわざ痛みを与える必要はありません。渡さなくても喫煙を止めさせる指導は可能です。指導が通れば生徒は自ずとタバコを渡します)。

 ③授業中に廊下で騒いだ生徒の襟をつかんだ⇒襟をつかむことは体には痛みを与えないが、屈辱(心に痛み)を与えるので体罰になる可能性があります。これは体罰かどうか迷いやすいケースかもしれませんが、生徒が教員よりはるかに腕力があり、かつ、従属関係がない場合は反撃されることが予想されますが、それが予想されない場合は体罰です。それが予想されるにもかかわらず襟をつかむことは体罰になる前に半殺しにされるので体罰にはなりません。

追伸13(13.2.9)生徒の過ちに対する指導は、「怒る」ではなく「叱る」でなければなりません。「怒る」は自分の感情の爆発であり、相手の人格否定につながります。「叱る」は相手の人格を尊重して理を説くことです。つまり、説得し納得させることです。それが行われるためには、相手が理を受け入れることのできる素地や人間関係が日ごろから形成されていなければなりません。

追伸14(13.2.16)桜宮高体罰報告書(要旨).pdfを読んで

(1)これ.pdfはさる公立高校の学校運営規程の抜粋です。ここに記載されているように、人権侵害を許さない学校づくりを行っている学校では、人権委員会(人権推進委員会・人権教育推進委員会などともいう)が機能し、体罰・いじめ・差別落書き等の人権侵害事例が発生していないかたえずアンテナをはり、それが発生すれば、その日のうちに問題解決に向けた方針を決定し、その日、それが無理なときには翌日一番に職員会議を開催し、教職員全員が問題解決の方針に向けた意思統一をおこない、人権委員会のイニシアの下にただちに行動します。人権侵害を許さない学校づくりを行っている学校では、教職員全員が人権侵害事例は最短で解決しなければならない、それが学校にとって最優先・最重要課題であることを認識しています。学校における体罰・いじめ・差別事件等の人権侵害問題解決にとって最も重要なことの1つは、人権委員会が機能していたのかどうかです。桜宮高の場合、人権委員会が機能していなかったのでしょう。そもそも、人権委員会が法令で禁止されている体罰が人権侵害であるという認識がなかったのではないでしょうか。体罰報告書(要旨)を読む限り、この報告書を作成した外部監察チームがその点を調査した形跡はありません。最も重要なことの1つが調査されていません。

(2)報告書(要旨)によれば、12月19日朝、(体罰を受け亡くなった)生徒は母親に「学校に行きたくない」と話しました。この時点で、生徒が学校に行くのをやめておれば、最悪の事態は回避できました。それが残念です。体罰に限らず、いじめ・不登校などに苦しむ生徒を助けるためにまずやらなければならないのは「学校に行きたくなければ行かなくて良い。学校というところは苦しんでまで行く必要はない」と明快に伝えることです。生徒を救うチャンスはあった、ということを体罰報告書は今後悲劇を繰り返さないために指摘すべきでしたが、体罰報告書(要旨)を読む限り、その指摘はありません。

(3)報告書(要旨)の中に「体育教官室」という語句が複数回でてきます。報告書作成者はこの言い方に違和感を感じなかったのでしょうか。普通の高校では「職員室」や「準備室」といいます。実験や地図作成といった実習を伴う理科や社会・家庭などの教科では実習の準備をすることもあるので「物理準備室」「社会科準備室」「家庭科準備室」などといいます。実習の準備をすることのない教科では「英語科職員室」「国語科職員室」などといいます。辞書によれば「旧陸海軍の学校の教職者。また、旧制の学校で教練を担当した軍人。」という意味もある「教官」という語句をなぜあえて桜宮高の体育科は使用していたのでしようか。なぜ「体育科準備室」ではないのでしょうか。生徒の死をもたらしたほどの体罰をおこなったのが体育科の「教官」だったのであるから、それも調査すべきだったでしょう。

(4)大阪市教委による当該教員の処分理由の報道によれば、当該教員は19年前の部顧問就任時からすでに「生徒に対する暴力を指導の一環と位置づけ、指導方法として効果的だとの考え」を持っていたとのこと。だとすれば彼は、卒業した体育大学でどんな教育を受けてたのかも調査されなければなりませんでした。しかし、体罰報告書(要旨)を読む限り、それがなされた形跡はありません。

(5)桜宮高で部活動の実績を上げれば有名大学に推薦入学できるといわれています。報告書(要旨)には、「(当該生徒の)任期途中での主将交代はマイナス評価を受ける出来事で、精神的苦痛と感じられる」と記載されていますが、ここは「任期途中での主将交代はマイナス評価を受け、有名大学への進学という夢を閉ざされる出来事で、精神的苦痛と感じられる」と記載されるべきであったでしょう。(なお、桜宮高で部活動の実績を上げれば有名大学に推薦入学できるということは、そういわれているだけで、そんな事実はないのであれば、この(5)の文は削除いたします。)

(6)報告書(要旨)の結語は「顧問には顕著な暴力傾向がみとめられる。従って・・・・・厳重な処分が必要であると考える。」です。あたかも、体罰死がもたらされたのは、たまたま部活動の顧問の個人的資質に問題があったからだといわんばかりです。もちろん、直接に体罰を行使した教員の責任は免れませんが、個人の資質のみに起因をもとめてはなりません。体罰を生み出す構造も問題にしなければ根本的解決にはなりません。トカゲの尻尾切り(当該教員の懲戒免職)で終わらせてはなりません。

(*)ここまで述べてきて、この報告書(要旨)があまりにも不十分な点が多いと思ったので、もう1度よく読むと、この報告書は「暴力にかかる認定事実」「暴力に対する評価」「暴力(4件認定)に至る経緯」「暴力と自殺との関連性」「顧問の暴力傾向」「結論・結語」のみを報告するもので、「体罰を生み出す構造とそれを解消する道筋」の調査報告ではありませんでした。この報告は、当該教員の適切な処分はいかなるものかの調査結果を報告するものに過ぎませんでした。また、この報告書は「体罰」のことを「暴力」と言い換えており、あたかも「体罰」と「暴力」は違う、「ひどい体罰」は「暴力」で悪いが、そうでない「体罰」は必ずしもそうでない、かのような印象を与えるものとなっています。かかる報告書を公表し、それに基づき当該教員をトカゲの尻尾切りよろしく懲戒免職して終わらせてはなりません。(1)~(6)で述べたように、「体罰を生み出す構造」を調査しそれを解消する道筋を明らかにして「体罰=基本的人権侵害」を許さない学校づくりを実践していかなければなりません。その実践主体は現場の教員です。それをやらない限り、ほとぼりが冷めればまた体罰は復活します。典型的体罰肯定論(指導として行われるなど一定の体罰は許されるとするもの)は、桜宮高体罰報告書の公表と当該教員の処分発表が行われた2月13日の前日に、桜宮高バスケ部員と保護者、卒業者ら約1100人が大阪市教委に当該教員の処分に際し「適切な判断を求める」とする嘆願書を提出した(2月8日からわずか4日間で集めたもの)ように、根深く存在するからです。また、約1100人もの人々の嘆願書を無視して当該教員の懲戒免職を強行したことは、今や社会の非難を一身に浴び、刑事責任をも追及されて「弱者」に転落した当該教員に対するバッシングであるとさえいえます。彼はいわば命令に忠実であった「一兵士」でした。真に責任を負うべきは、体罰を容認・発生させる構図を維持・強化してきた者でなければ、体罰問題の解決はありません。

追伸1513.2.20) 桜宮高では管理職が4人になります(報道記事.pdf)。校長1人・准校長1人・教頭2人の4人。改革担当市教委顧問1人<注>をいれると管理職が5人になります。異常です。管理職を増やせば何とかなるという貧困な発想・方法に疑問を持ってほしい。「(養護教員・司書教員・事務職・技能職を除いて)授業しない人が増えると学校は悪くなる」という法則があります
。授業しない人、しかも管理職が5人という多人数になることによって桜宮高は悪くなっていくことが懸念されます。桜宮高に人件費を投入するのであれば、授業をする教員の数を増やして教員1人当たりの授業持ち時間数を減らすことで、学校改革に注ぐ教員のエネルギーを増大させるべきです。授業しない人、しかも管理職が増大することで上意下達体制が強化されることで、学校改革に注ぐ教員のエネルギーが削がれ、ますます教員が「一兵士」となっていくことが危惧されます。

  <注>(13.3.1)この記事.pdfが本当だとすれば、女子バレー選手を「殴る」「蹴る」した前科があるうそつきを改革担当顧問に任命したことになります。何をか言わんやですね。女性を殴る、蹴るしていたとは・・・。

追伸16(13.2.26):甘い社会が見過ごす暴力.pdf

追伸17(13.2.27):スポーツ界の体罰は軍隊にルーツあり。しごきは身体資源の先食いである。.pdf

追伸18 :(1)体罰の直後には憎しみ感情を抱いていた子でも、時間の経過とともにその記憶が「先生は熱心だった」と美化される傾向がある。指導者に厳しさの一方、優しさもあると、その傾向は一層強まる。こうした経験をした子は、指導者になったときに体罰を再生産してしまうおそれもある。言葉で教える忍耐力が必要だということを教師に教えることで、悪循環を断ち切らなければいけない<小林剛・武庫川女子大名誉教授(臨床教育学)の話>。(朝日新聞 13.1.22)  (2)体罰を受けている選手はその中に入ってしまうと、まひしてしまう。自分のプラになっているんじゃないか、先生は自分のことを思ってやってくれている。そんな考えに陥りがちなんです<山口香・筑波大大学院准教授(元世界王者)の話>。(朝日新聞 13.2.7)。

追伸19 : 体罰は近代日本の遺物 「持たざる国」補う軍隊の精神論.pdf

追伸20 : ミルグラム実験.pdf

追伸21体罰は自立妨げ成長の芽摘む(桑田真澄さん)

追伸22:【17(H29).5.15】この2つの動画(スピードバレー実践術カンヌ映画祭短編部門グランプリ作品)を見れば、これ(17.5.14)は「単なる虐待」(学校部活動バイオレンス)でしかありません

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