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大川小学校の惨事が問うているもの    

【1】資料

(1)大津波の惨事 大川小学校~揺らぐ真実~11年(H23)年3月11日の東日本大震災における大川小学校の惨事の真実に迫る報告記事>の抜粋

(2)大川小学校事故検証報告書(概要)<14(H26)年2月/大川小学校事故検証委員会>から

  教頭をリーダーとした組織的かつ積極的な情報収集と、活発な議論に基づく柔軟かつ迅速な意思決定がなされていれば、もっと早い時点で三次避難が開始されていた可能性があることは否定できない。

(3)教務主任(助かった教員)の手紙

(4)裁判

  ①訴状によると、11(H23)年3月11日の地震発生後、教職員らは児童たちを裏山などの高台に避難させず、防災行政無線で大津波警報が流れる校庭に待機させた。近くの川に異変がないか確認するなどの情報収集もしておらず、注意義務を果たせば児童は助かったと指摘。国家賠償法などに基づき、設置管理者の市と教職員の給与を負担する県に、児童1人当たり1億円の賠償を求めている。(裁判開始を伝える朝日新聞記事を基に記載) <判決内容は後述>

  ②裁判は損害賠償責任の有無を争う。責任が認められるには、結果を予見できたこと(予見可能性)を前提に、相手が結果を避ける義務を怠ったこと(結果回避義務違反)を立証する必要がある。突き詰めると、争点は「津波が到達して人命に危害を及ぼすと予想できたか」に絞られる(この記事より)。

  ③遺族を訴訟に追い込んだのは大川小学校事故検証委員会⇒ご参照1ご参照2

(5)石巻市立大川小学校(事故内容の記載あり)

【2】概要

(1)60大川小学校は、石巻市北上川右岸の釜谷地区にある(→右に地図<クリックで拡大>)。大川小の学区は北上川に沿ってかなり広い範囲にわたるため、多くの子どもたちがスクールバスで通っていた。北上川河口から約4㌔の川沿いにあって、震災当時の津波浸水予想図では、浸水しないことになっていて避難所に指定されており、大多数の教職員は津波の心配をしていなかった。しかし、東日本大震災で下校時に学校を襲った津波で、迎えに来た保護者と共に帰宅していた児童を除き校庭で待機していた78人の児童のうち、全校児童(108人)の7割に当たる74人が、全教職員(13人)のうち学校にいて児童と共に校庭で待機していた11人(うち事務員1人/校長は不在)のうち10人が、それぞれ死亡・行方不明となった。

(2)助かったのは、次の5名(教員1名、児童4名)

   教員・・・教務主任。学校の裏山の向こう側に服を濡らすことなく避難した。その避難ルートは、市教委によるこの教員の所在隠しにつき正確なことは今も不明。裏山に避難した住民はその姿を見ていないとの証言があることから、住民が裏山に避難してくるよりいち早く先に、津波襲来を察知して裏山を駆け上り、その途中、校舎・校庭が津波に襲われる状況を目撃したと思われる。

   児童1人・・・さほど濡れずに、助かった教員と共に学校の裏山の向こう側にいるところを助けられた。その教員と共に避難したようである。

   児童1人・・・一たんは津波に飲み込まれたが、学校の裏山に打ち上げられて助かった(当然びしょ濡れ)。

   児童2人・・・1人は、避難途中で津波がやって来るのを見て学校の裏山に駆け上がっている最中に津波の最上部に襲われて体半分土中に埋まった。そこに、一たんは津波に飲み込まれたが浮かぶ冷蔵庫に入って助かり流れ着いてきたもう1人の児童によって助けられた(2人とも、当然びしょ濡れ)。<助かった児童の証言.pdf

市教育委員会が生き残った教員や児童らから聞き取り調査した報告書の内容.pdf(この記事では、生き残った児童は、1・3・4年各1名、5年2名の計5名になっている。この記事の中には、迎えに来た保護者と共に帰宅して生き残った児童の証言も含まれる?)」>

(3)地震と津波で死亡した同県の小学生は127人で、4割以上が大川小の児童だった。

(4)震災当時、大川小学校校長は年休で不在。教育長は病気休暇中であり、教員出身ではない事務局長が教育長代理を務めていた。

(5)市教委では検証が行えないとして、文科省が主導した第三者の防災の専門家らでつくる検証委員会が13(H25)年の2月に設置され、14(H26)年の2月に報告書が作成されたが、その報告書は真実を明らかにしていないとして、14(H26).3.10に遺族は、真実を明らかにし市と県の責任を問うべく総額23億円の損害賠償を求めて訴訟。16(H28).10.26に仙台地裁は、学校側の過失を一部認め、14億2600万円あまりの損害賠償を命じた(仙台地裁判決要旨.pdf仙台地裁判決.pdf)。

(5)宮城県沖で二つの断層が連動した地震が発生した場合を想定した津波浸水予測によると、河口付近の高さ5~10メートルに対し、小学校周辺は1メートル未満。だが、今回の津波は2階建ての同校校舎の屋根(約7m~10m)まで乗り越え、裏山のふもとから約10メートルも駆け上がった。また児童らが避難しようとした北上川に架かる新北上大橋のたもとでも、電柱や街灯がなぎ倒されるなど津波の被害を受けた。

  津波への意識が比較的高い河口域と比べ、堤防と山に挟まれた独特の地形(学校からは、堤防に遮られて北上川は見えないし、海岸線も見えない。)が避難を遅らせ「ここまで来るとは誰も思わなかった」と同地区の住民は口をそろえる。同市河北総合支所によると、防災無線での避難呼びかけは一度きり。同支所によると、釜谷地区全体での死者・行方不明者は住民の約4割の189人。津波を見ようと堤防に行ってさらわれたり、自宅にとどまり犠牲になった人も多かったという。釜谷地区内にいたことが把握された住民等(在勤者、来訪者含む)232人のうち、181人が死亡した(死亡率78.0%)、との報道もあった(なお、以上の情報は未精査)。

【3】経緯

(1)11(H23)年3月11日午後2時46分、地震が発生した。

(2)ほどなく、全員が校庭に避難し、27人の児童は迎えに来た親と帰宅した(3人の児童は欠席していたと思われる)。

(3)津波が襲う前に大川小学校の教員が選ぶべき選択肢は次の5つであった(市の防災マニュアルは、津波対策を「高台に上る」とだけ記しており、具体的な避難場所の選択は各校に委ねられていた。)。

  ①学校裏山に避難。

  ②待機していた下校用バス(45~50人乗りだが、詰めれば全員乗車可能)に乗って自動車道で、学校の裏山の向こう側(助かった教員が避難したところ)に避難。

  ③学校(海抜1m)から西へ直線で約200mほどの新北上大橋のたもとの高台になっている交差点(通称三角地帯/校庭より6~7m高い/堤防とほぼ同じ高さ)に向かう(津波襲来前にここにいておれば、津波襲来をいち早く察知できて、近接の山斜面を駆け上ることで助かる確率が高かった。ここで津波が襲来してくるのと逆方向に津波襲来直前まで車を誘導していた4人の市職員は山斜面を駆け上ることで3人が助かっている)。

  ④避難するより安全と思われる学校での積極的待機(なお、大川小に屋上はない)。積極的待機とは、情報収集や判断力駆使をしっかりとやりながら、何かあればただちに次の行動に移る準備・体制を整えながら待機すること。

  ⑤消極的待機。これは、なすすべを明確に持てないで、とりあえず待機し、行き当たりばったりの行動(寒さ対策に校舎の中へ体操服等を取りにいったり、たき火をしようとしたり、とりあえず校舎2階が避難場所と使用できるか見にいったりなど)をとること。

(4)①は、山崩れや倒木の恐れありとして選ばず、②も不選択(その理由不明/運転手も死亡)。④すらとることなく、結局、消極的に⑤を選んだ状態となっているうちに、津波が襲ってくる気配を感じて、午後3時36分、③になった。

(5) 「空白の50分」(2時46分~3時36分)

  ①63これは、地震が起こってほどなくして全員が校庭に出て集合したが、その後、津波が学校に襲来する直前(1分程度前)まで、右図(→<クリックで拡大>)のような校庭で消極的待機したことをいう。

  ②子どもを引き取りに来た保護者やラジオが大津波警報を伝え、防災無線のサイレンが鳴り、広報車が高台への避難を呼びかけている中、子どもたちは、小雪が舞う極寒の寒空の下寒さと恐怖と不安で震えながら、先生方の言うことを聞いて、ひたすら指示を待ち続けた。

   児童遺族「もし、先生がいなかったら、児童は裏山に逃げて死ぬことはなかった。山への避難を訴えた児童がいた。裏山に逃げた児童もいたが校庭に連れ戻された。迎えに行った親の中には、先生に大津波警報が出ていることを伝えたり、『山に逃げて!』と強く言ったりした。」

(6)津波襲来7分前(3時30分)、市の広報車が「津波襲来」を告げながら学校前を通過⇒これにより教員は「津波襲来」を予見でき、津波襲来(3時37分)までの「7分間」で危険回避処置がとれたはず、ということが裁判の焦点の1つとなる⇒地裁判決では、この「7分間」のみの市と県の過失責任が認められたが、それ以外の市と県の過失責任は認められなかった。

(7)6661_262_2津波襲来(3時37分)直前(一分程度前)、教員・児童は校庭を出た。それは、避難行動というよりも「逃げ出す」というものだった。向かった先は、三角地帯。ここは、高さ10mの津波にのみ込まれないだけの高さはなく、しかも、津波が襲来して来る方向にある。<避難(逃げ出した)経路→右図<クリックで拡大>

  (3)の選択肢の中で、なぜ③を選んだのか。①はすでに否定していたので意識の中になかった。②は最早選択不可能。すると、逃げ出す(④を否定する)となれば、③しか思い浮かばなかったのであろう。

  避難行動というよりも「逃げ出す」というものだった、の根拠

    ①移動の先頭にいたのは、新人の女性教員だった(との証言がある)。避難行動であれば、ベテランの教員が先頭に立つはず。

    ②教務主任が校舎2階が避難場所にできるかを見に行って戻ってくる前に、移動は始まっていた。しかも、何人かの児童は置き去りにされていた、または移動の列から大幅に遅れていたようだ。このときに学校を通り過ぎた避難途中の住民は校庭にまだ何人かの人影を見たと証言している。列の最後尾についた教務主任は結局三角地帯には向かわず、児童1人を連れて裏山の向こうに避難したと思われる。

    ③移動途中で教頭が、後方に戻ってきて遅れてやってくる児童に走るよう叫ばざるを得ないほど列がかなり伸びていたと思われる。

    ④学校を出て右に曲がってすぐ県道に出る(こうしていれば、津波襲来をいち早く把握でき引き返して裏山に駆け上がることで被害を軽減させることができた)ことをせず、左に曲がってわざわざ遠回りの津波情報が把握できなく袋小路もある狭くて移動しにくい裏道を選ぶ、というよりつい進んでしまっていることは、避難を意識した行動ではなく、判断停止の無意識的な逃げ出した行動と思わざるを得ない。

(7)移動途中(3時37分)、学校の裏手から北上川沿 いの県道に出ようとしたところで津波が襲い、三角地帯ものまれた。

  津波は列を前方からのみ込んでいった。列の後方にいた教諭と数人の児童は向きを変えて来た道を引き返し、裏山を駆け上がろうとした。列にいた児童・教職員のうち3人の児童のみ助かった。

【4】最大の問題点

(1)「災害対応マニュアル」が不十分なものだった、など実に多くの問題点があるが、最大の問題点は、「空白の50分」がなぜ生じたのかである。

(2)(1)の最大原因

  「トンデモ市教委」/「トンデモ校長」ー教頭ー主任-一般教職員、という「トンデモ市教委」/「トンデモ校長」が管理するヒエラルキー(階級制)の下で、教職員の「個人的・集団的エンパワーメント」が枯渇していたことではないか。

 <1>「個人的・集団的エンパワーメント」が枯渇していたといわざるを得ない根拠

  ①大川小学校事故検証報告書(概要)<14(H26)年2月/大川小学校事故検証委員会>に、「活発な議論に基づく柔軟かつ迅速な意思決定がなされていれば、もっと早い時点で三次避難が開始されていた可能性がある」との記述がある。

  ②大津波の惨事 大川小学校~揺らぐ真実~抜粋に次の記述がある。

    学校内部の組織体の問題はたまた、決められない人間関係のせいだったのか“極端な事なかれ主義”が蔓延し、影響した2年間で蔓延した極端な「事なかれ主義」が大きく影響教職員集団が子どもを守るために機能していたのかどういう学校経営をしていたのかを含めて考えていかないと、なぜ避難マニュアルがあれだけ杜撰だったのか、わからなくなる問題なのは、なぜ「教職員集団として意思決定できなかったのか」ということ教職員集団、組織のあり方は、無関係なんですか? それこそ大事なんじゃないですか?(現場に)自由に意見を言える雰囲気がなかったということですよね物を言いやすい環境を作っていなかったなぜ、まとまらない教員集団、意思決定できない組織になってしまったのか?

 <2>校長が「トンデモ校長」であったといわざるを得ない根拠は、大津波の惨事 大川小学校~揺らぐ真実~抜粋に次の記述があること。

    元校長は、早期退職元校長学校を辞めてから、どんどん忘れちゃって…」とだけ言って、別室に入っていった/まだ見つかっていない子どもたちも少なくないのに、校長は何を言いだすんだ/校長が<友達は少なくなったが、笑顔がいっぱいの学校をつくろう>と子どもたちに呼びかけた/校長が一度も捜索に立ち会っていない/避難マニュアルについて説明会で保護者から質問されても、津波避難時のあるべき対応を、きちんと答えることすらできなかった。子どもたちの安全を、このような人物に任せていたのだ/震度6弱以上の地震が起きれば、たとえ勤務時間外であっても、市内の教職員は全員所定の位置に着かなければならない「第三配備体制」となる。にもかかわらず、校長が、学校の様子を見に行ったのは、発災から1週間も経ってからだった。/捜索に至っては、避難所から「いってらっしゃい」と遺族を送り出すだけで、一度も加わらなかった/前校長は、A教諭の自宅近くの路上で、2011年11月に面会していたことを、2012年10月28日の説明会で突然明らかにした。面会していた事実について、市教委も「全く知らなかった」と驚きを隠せない様子だった

  なお、元校長の次の校長も事故後の教頭も同じような管理職であった。そういわざるを得ない根拠は、大津波の惨事 大川小学校~揺らぐ真実~抜粋に次の記述があること。

    元校長の次の現校長にかかる記述⇒児童遺族「最も許せないのは、現場で悲惨な出来事に遭い、現場ですべてを目撃していた息子、哲也の証言を『子どもの記憶は変わるもの』と現大川小学校の校長が勝手に捻じ曲げたことです。」

    事故後の教頭にかかる記述⇒震災から3ヵ月後の6月4日に行われた2回目の説明会の議事録には、一斉に部屋を出ていく市教委幹部や大川小幹部に向かって遺族たちが声を上げた、こんなやりとりが残されている。保護者数名「今後説明会はあるんですか? これで説明会は終わりですか?」大川小教頭「説明会は予定しておりません。これで終わりです」

 <3>市教委が「トンデモ市教委」であったといわざるを得ない根拠は、大津波の惨事 大川小学校~揺らぐ真実~抜粋に次の記述があること。

    新しい事実を知るたびに、教育委員会は何をやってたのかと、不安になってくる。絶望というか、そこに子どもを預けていたと思うだけで、ゾッとする/聞き取りメモは(指導主事によって)廃棄されている/市教委は少しでも逃げたようにとか、少しでも仕方なかったような話にもっていっている/この貴重なはずの小野寺さんの妹の証言は、2011年中に市教委が行った聞き取り調査の対象者から漏れ、調査報告書の記録に残されることはなかった。/「教育委員会が、(引用者:助かった)先生に話をしゃべらせないようにしてるんじゃねえかな。精神が不安定になったからって、普通なら教育委員会が調べるんじゃねえのか。教育委員会は、先生がどっから逃げたのかとか、わかってんでねえのかなあ。」この貴重な高橋さんの証言もまた、2011年に市教委が行った聞き取り調査のリストから漏れ、調査報告書の記録に残されることはなかった。/このことを、調査に参加した指導主事がどの程度把握しているかは定かではないが、残念ながら、発表の中でも一切触れられることはなかった。/東日本大震災が起きてから1年7ヵ月以上が経つ。遺族たちはこの間、市教委の事後対応にも苦しんできた。「二次被害だ」「市教委を検証してほしい」という声が、遺族のなかから上がっている。/(引用者:市教委の)聞き取り記録や事故報告は、遺族側から、調査の矛盾点の指摘を受けて、変遷を繰り返している。(中略)さらに、重要な資料を、長期間公表しなかったという問題もあった。/ずさんな調査を行ない、メモを廃棄したとされる当時の指導主事は、処分されることも、間違った公文書の修正文書を改めて作成することもなく、2012年4月、市内の小学校へ校長として“昇格”していった。/震災から約3ヵ月の11年6月4日、市教委は第2回保護者説明会を開催。市教委は開始早々に「説明会は1時間だけ」「今後は説明会を設けない」と告げ、時間になると学校側・市教委側全員が途中で退室するという形で打ち切った。(中略)同時期、説明会を再開するよう、遺族たちは市教委と水面下で必死の交渉を続けていたが、なかなか開催されなかった。典型的な問題点は、生存者や帰宅して助かった児童たちへの聞き取り調査のメモを「破棄した」と、調査を担当した当時の指導主事が言い続けていることだ。子どもたちと教職員84人の命が失われたという、未曾有の規模の事故なのに、音声録音をしないままの調査に加え、挙げ句の果てにメモを捨てるという行為は、公務員としてはあり得ない

(3)責任逃れというべき元校長の早期退職を承認した、校長の任命権者である県教委も「トンデモ校長」の任命責任をとっていない。市長も、2011年6月、「これが自然災害における宿命だということです」と亡くなった子供たちの保護者に発言した。⇒「トンデモ市長」/「トンデモ県教委」ー(任命)→「トンデモ校長」ー教頭ー主任-一般教職員(「トンデモ市教委」は校長の「トンデモ」さを増長させたと思われる)・・・かかるヒエラルキー(階級制)の下にあってエンパワーメントを形成させることができていなかった教職員は、ついに74人の児童を救うことができなかったのである。

(4)教職経験者も最大の問題点を指摘している⇒その1.jpgその2.jpg

【5】関連

(1)息子は大川小の担任だった 負い目の両親に遺族は

(2)デマはこうして醸成される(リンク)

(3)写真多し(リンク)

 

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