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大津波の惨事 大川小学校~揺らぐ真実~

連載 : 大津波の惨事 大川小学校~揺らぐ真実~<11年(H23)年3月11日の東日本大震災における大川小学校の惨事の真実に迫る報告記事>の抜粋 (文中の〔 〕の部分は引用者が追記)   この連載記事等を参考にして記したのが大川小学校の惨事が問うているもの 

連載 第1回(12.6.25)

遺族記者会見(仙台市12.6.16)

①佐藤とも子さんの姿もあった。彼女は、こう涙ぐむ。

「皆から(犠牲者は)“自分の子どもだけじゃない”って言われ、悪いことをしてたのかなって葛藤しました。でも、子どものことを考えると…って思って、地区を出ました。新しい事実を知るたびに、教育委員会は何をやってたのかと、不安になってくる。絶望というか、そこに子どもを預けていたと思うだけで、ゾッとするんですよね」

②2小学5年の次女を亡くした紫桃さよみさんは、こう涙を流す。

「〔被災した児童・教職員は〕校庭で、黒い波に流されたんだという事実を初めて知りました。それまで15ヵ月間、“15時25分に〔校庭より〕三角地帯へ避難開始”“15時30分に避難開始”、そして4度目の説明会で“津波到達(15時37分頃)1分前に避難開始”と、何度も塗り替えられてきた事実が、「〔被災した児童は〕本当は校庭にいて、逃がしてもらえなかった。先生方は、どんな思いでここにいたんだろうかということを、資料を見て、一晩中考えました。あの子の気持ちを想像しました。その一瞬を、やっと手に入れたような気がしました。あの子たちが、死ぬほど脅えきっていた、その思いに比べたら、いま私たちがこの場にいるつらさなんて、塵の一粒でしかないと思います」

③佐藤さんは、こう続ける。

「3月15日の時点で、〔ただ一人助かった〕この男性教諭は“校庭に待機中、津波が来た”と、ほぼ事実を話されていると思います。三角地帯へ避難途中〔に児童・教職員が津波に襲われた〕とか、裏山に倒木があっ〔て裏山に避難できなかった〕たなどと記されていない。だとすれば、先生は、昨年4月9日の説明会で、突然、三角地帯へ避難途中とか裏山に倒木があったなどという話を言わなければいけなかった。どんなつらい思いで、私たちの前に出て話をしてくれたのかなと思っています」

連載 第4回(12.7.18)

重要な聞き取り調査のメモを廃棄していた加藤元指導主事は、今年4月から市立大原小学校長に“昇格”し、柏葉元校長は、早期退職していったという事実だけが、遺族たちの前に残された。

②柏葉元校長に、市教委の説明会〔12.7.8〕後の会見の後、歩きながら「〔重要な事実関係について〕本当に覚えていないんですか?」と話しかけると、「学校を辞めてから、どんどん忘れちゃって…」とだけ言って、別室に入っていった。

連載 第3回(12.7.9)

①震災から、まだ2週間あまりのある日、石巻市立大川小学校のPTA会長のもとに、柏葉照幸校長(当時)が登校式の相談をしてきたという話を、遺族の紫桃隆洋さんは聞いた。紫桃さんは5年生の次女、千聖(ちさと)さんを失いながら、地域の消防団として捜索にも参加していた。

 児童を間借り先の学校へ登校させるという日は〔児童74人がなくなってからまだ18日しか経ってない〕3月29日

 「まだ見つかっていない子どもたちも少なくないのに、校長は何を言いだすんだ」

 会長は校長をそんな風に叱りつけたということだった。

 学校の建つ釜谷地区は、小さな集落だが、石巻市内でも突出して遺体発見数が多かった。まさしく全滅となった地区で、津波襲来まで大川小に残っていた89人の児童・教職員のうち、助かったのはたった4人。その頃はまだ、行方の分からない家族や知り合いの手がかりを探す人たちで、校舎周辺はいつも騒然としていた。

 「まさか、登校式はやらないだろうと思っていたら、30日には、登校式の様子が報道されたっちゃ。そのなかで、校長が、<友達は少なくなったが、笑顔がいっぱいの学校をつくろう>と、子どもたちに呼びかけたとあった」

 校長が一度も捜索に立ち会っていないことなど、言いたいことはあったが、初めは、多くを疑ってはいなかった。皆が震災の混乱のただ中にいたから、子どもたちが学校で亡くなったことも、今すぐに、説明を要求しようとも思っていなかった。

 しかし、報道で知った校長の言葉に、初めて、強い違和感を覚えた。子どもを亡くした家族は、学校から突然置き去りにされた。

②震災からほぼひと月経った11年4月9日、こうした遺族からの求めに応じて、ようやく初めての説明会が開かれた。

 最後まで学校に残っていながら、教職員では唯一生き残った男性教諭が、遺族の前で当時の状況を説明した。男性教諭は、地震発生から翌日までの行動をひと通り説明した後、「本当に、毎日、学校で中庭で元気に遊んでいる子どもたちの夢とか、直前まで卒業式の用意をしていた先生たち、教頭先生はじめ、その夢を毎日見ます。本当にすみませんでした」と言って、机の上に突っ伏したような格好になった。そして、説明会が終了するまで、顔を伏せたままだった。

 現在に至るまで、この教諭は、震災により大きなショックを受けたとして長期の休職をしている。主治医からのストップにより、その後は誰も、男性教諭と直接連絡をとることができないままの状態が続いており、この日の説明会は、教諭が生の証言をした唯一の機会となっている。

③震災から2ヵ月後の5月には、20人あまりの子どもたちからの聞き取りも、市教委によって行われた。

 和隆さんは、この子どもたちの調書についての不審点も挙げる。

 「文面を省いている。津波が来る前に学校を離れて助かった児童に、雄樹の最期を知りたい、分かる範囲のことを教えくれって、その子の母親の立ち会いの下で、色々と話してもらった。雄樹くんたちは、先生に向かって、何で山に逃げないの、ここにいたら地割れして地面の底に落ちていくと、訴えていたって。子どもらしい発想でしょ。その子は、聞き取りの時にもその話をしたと言っていたが、調書には書かれていないんだ。他にもしゃべったことが書かれていないという子がいる。だけど、聞き取りメモは(指導主事によって)廃棄されているから、言ったという証拠がない

④この校長の証言や覚え書きは、遺族や市議等の調査により、矛盾がいくつも指摘されている。

 例えば、所用先からの「神業的な」移動速度、被災当日に車で行ったと証言したはずの場所が実際は1メートル50センチほど水没していたこと、〔校長が〕市役所の総合支所で見かけたという市議はその日その場にはいなかったこと、などだ。

「校長は、嘘をつくのがものすごく下手な人。これまでの説明会を聞いていても、場当たり的にうそをついている」 遺族は、そうあきれる。

 市教委の対応が、震災後の人災だという遺族もいる。

〔校庭にいて被災した児童・教職員は〕ほとんど逃げてないのはね、明らか。どう考えてみても判断ミスです。もう十分、責められるべき部分だと思いますね。それを、〔市教委は〕少しでも逃げたようにとか、少しでも仕方なかったような話にもっていっている

⑤今年5月に私たちの請求で初めて情報開示された資料、2011年3月16日朝の校長の最初の聞き取り記録がある。そこには、「引き渡し中に津波」「屋根をこえて津波」という記述が見つかった。

 この文書に記載されている記述について、市教委は、当時、校長が総合支所で、側聞した情報、つまり、噂だと説明した。

 しかし、遺族は、これらの記述だけでも、児童たちが、ほとんど逃げていないこと、目撃者の言葉であること、学校関係者の目線であることが推測できる、と話す。

 まず、「引き渡し」は、学校関係者か保護者にしかなじみのない言葉で、その光景を、当事者以外の一般の人が説明するには、使わない表現ではないか、という。

 次に、「屋根をこえて」という部分は、津波が襲来したときに、校庭より安全な場所、すなわち山によじ登っていた人にしか語れない表現だという。確かに、校舎を超えて津波が押し寄せて来た時点で、校庭にいて目撃した人は、助かることができない。

 つまり、「屋根をこえて」だけでなく「引き渡し」の意味を含めた情報を知っていたのは、学校関係者であり、津波に襲われた時に山に逃れ、九死に一生を得た誰かということになる。校長が、支所や避難所で側聞した情報の出所も、この人物〔、つまり、ただ1人助かった教員〕の他にないのだ。

 校長の証言によると、3月15日には、助かった男性教諭から、学校の被災状況を知らせるメールが届いている。説明会では「波をかぶって」と証言していた教諭だが、少なくとも携帯電話は濡れずに使えていたということだ。

 校長の携帯に届いたとされるこのメールを、実際に確かめた人は市教委にもいないため、実際の文面はわからないが、「引き渡し中に津波」「屋根をこえて津波」といった情報は、当時の状況を考えると、この教諭からの情報で間違いないのでは、と遺族は推測する。

 そして、津波襲来時は、この男性教諭が、いち早く山の上に逃げていて、一部始終を目撃していたのではないか。それを15日に、校長にメールで伝え、16日に聞き取り記録に書き取られたのではないか、というのだ。

連載 第4回(12.7.18)

①重要な聞き取り調査のメモを廃棄していた加藤元指導主事は、今年4月から市立大原小学校長に“昇格”し、柏葉元校長は、早期退職していったという事実だけが、遺族たちの前に残された。

②柏葉元校長に、市教委の説明会〔12.7.8〕後の会見の後、歩きながら「(引用者:重要な事実関係について)本当に覚えていないんですか?」と話しかけると、「学校を辞めてから、どんどん忘れちゃって…」とだけ言って、別室に入っていった。

連載 第6回(12.8.2)

①同市教委が今年1月22日付で作成した「大川小学校震災時の対応についての考察」( 災害対応マニュアルについて/危機意識について /安全への思い込みについて)

 遺族側は、この3点の考察について「大川小だけが“失敗した”原因にはならないし、学校内部の組織体の問題に一切触れていない」(紫桃隆洋さん)として、今も受け入れていない。

②当時の大川小校長は、避難マニュアルについて説明会で保護者から質問されても、津波避難時のあるべき対応を、きちんと答えることすらできなかった。校長職の人事は、宮城県教委によって行われているが、子どもたちの安全を、このような人物に任せていたのだ。

連載 第10回(12.9.12)

①小野寺さんの実家から学校までは、車でだいたい3分前後。したがって、間一髪、生還した小野寺さんの妹が、学校の校庭で走り回る子どもたちの姿を目撃したのは、15時35分前くらいということになる。

 この貴重なはずの小野寺さんの妹の証言は、2011年中に市教委が行った聞き取り調査の対象者から漏れ、調査報告書の記録に残されることはなかった

②翌朝、林道を下りていくと、〔学校の裏山の向こうの〕入釜谷地区の入釜谷生活センターで、A先生〔ただ1人助かった教員のこと〕に出会った。

 「えー?学校の先生、助かってのか?おかしいっちゃ!」

 校舎は屋根まで津波をかぶっていて、C君たちがケガまでしながら、何とか這い上がってきた状況を目の当たりにしてきた高橋さんには、A先生がそれまでの間、どこにいたのか、疑問に思った。

 「服などを濡らさないで、その日の明るいうちに〔学校の裏〕山の向こうの〔入釜谷生活センター近くの〕自動車整備工場に着くには、津波が来るのわかってて、すぐに逃げて林道へ出ないと着かない。(釜谷交流会館付近で)山に打ち上げられて、ここを登っていたら、俺らと会うって。教育委員会が、先生に話をしゃべらせないようにしてるんじゃねえかな。精神が不安定になったからって、普通なら教育委員会が調べるんじゃねえのか。教育委員会は、先生がどっから逃げたのかとか、わかってんでねえのかなあ」

 この貴重な高橋さんの証言もまた、2011年に市教委が行った聞き取り調査のリストから漏れ、調査報告書の記録に残されることはなかった

連載 第11回(12.9.20)

①子どもたちが目指した最終地点、「三角地帯」に行くには、県道に出る必要がある。学校は県道沿いに建つのに、なぜ個人宅の軒下を通るような、複雑で不可解な道筋をたどったのか。しかも、その手前の幅2メートルの私道部分は、袋小路にもなっている最悪の場所だ。

 このルートの選択については、51分間もの間校庭に居続けた理由と並び、この事故に関する大きな謎のひとつとなっている。

②今回の調査では、生存児童の公文書には記載がなかった証言が、保護者を通じて得られた。書道教室と倉庫の間を走っていき、県道に出るところで津波を見た時、児童の列の先頭付近には、新人の女性教諭がいたという。

 このことを、調査に参加した指導主事がどの程度把握しているかは定かではないが、残念ながら、発表の中でも一切触れられることはなかった

連載 第15回(12.10.30)

①あの日、地震が発生した午後2時46分から、学校の時計が午後3時37分で止まるまでの51分間、学校で何があったのか。

 子どもたちが、高台への避難もせずに校庭に居続けた“空白の51分間”の出来事は、「真実を知りたい」と訴え続ける遺族たちがもっとも知りたがっている部分だ。

②2011年3月11日。この日は、朝から穏やかに晴れていた。午後になると雲が出てきて、次第にどんよりとした空に変わった。午後2時を過ぎた頃から、急速に冷え込んできた

 午後2時46分、大川小では帰りの会が終わり、「さようなら」を言っている途中に、地震は起きた。子どもたちは、机の下に潜り、揺れがおさまるのを待った。教頭がハンドマイクで「机の下に避難」と繰り返していた。揺れはそのまま2分ほど続いた。

 学校前の県道には、海岸方面の長面地区に向かって、スクールバスが待機していた。大川小の学区は北上川に沿ってかなり広い範囲にわたるため、多くの子どもたちがスクールバスで通っていた。

 この日、大川小の柏葉照幸校長(当時)は、年休を取り、学校には不在だった。

 教務主任のA教諭(教職員として唯一の生存者)は、廊下から「校庭へ避難しろ」と叫んでいた。

 子どもたちは早足で、校庭へ出た。上履きを靴に履き替えたり、自分の判断でジャンパーを着用したりした子どももいた。外では、小雪が舞い始めていた

 A教諭は、校庭に出ると「山だ! 山だ! 山に逃げろ」と叫んだ。それを聞いて、山にダーッと登っていった子がいたが、教諭の誰かから「戻れ!」と怒られ、連れ戻された

 5、6年生の男子たちが、「山さ上がろう」と先生に訴えていた。当時6年生の佐藤雄樹君と今野大輔君は「いつも、俺たち、(裏山へ)上がってっから」「地割れが起きる」「俺たち、ここにいたら死ぬべや」「先生なのに、なんでわからないんだ」と、くってかかっていたという。

 2人も一旦校庭から裏山に駆けだしたが、戻れと言われて、校庭に引き返している。

 防災無線では、「海岸線や河川には近づかないでください」と呼びかけていた。教頭の持っていたラジオでは、6メートルの大津波警報を伝えていた

 担任教諭たちが校庭で点呼をとり、教頭へ報告。遅くとも午後3時前には完了していたと思われる。

 数分ごとに、たびたび余震が起きていた

 校庭では、女の子たちが泣いていた。「地震酔い」なのか、吐いている子もいた

 子どもを迎えに来た保護者は、20家族ほど。名簿に名前を書いて帰宅していった。大津波警報が出ていることを報告していた母親もいた

 保護者たちは、教諭から「学校のほうが安全」「帰らないように」「逃げないほうがいい」などと言われていた。

 また、地域の人たちが校庭の入り口に集まってきた。布団やブルーシートを持ってきていた人もいた。

 午後3時14分。大津波警報が10メートルに引き上げられる。直後の午後3時15分、余震発生。防災無線を担当した市河北総合支所の職員によると、この頃に初めて大津波警報が出ていることを認識して呼びかけ始めたという。だが、高台への避難の呼びかけは特にしなかった。

 一方、同支所の3台の広報車は、大津波警報と、高台への避難を呼びかけながら、県道を海岸の長面方面に向かった。午後3時20分頃、広報車の1台の職員が大川小に立ち寄り、〔学校より北上川の河口よりの地区である〕長面の人たちを体育館に避難させられるかを確認して、「〔天井の照明灯が落下する恐れがあり〕危険」との説明を受けている。同時刻に、津波の第一波が、牡鹿半島の先端の鮎川に到達。

 校庭では、たき火の準備も始まっていた。

 午後3時25分過ぎ、北上川河口の防潮林(松原)を越えてきた津波を目撃した広報車が〔大川小のある方向に〕引き返す。後続の広報車もUターンして、「高台に避難してください」「松原を津波が通過しました。避難してください」と呼びかけながら、県道を戻っていった。広報車が大川小前を行きと帰りで通過する際、スピーカーの呼びかけを聞いた児童もいる

 教諭たちの間では、裏山に逃げるべきか、校庭にとどまるべきかで議論をしていた。市教委の報告書には、<教頭は「山に上がらせてくれ」と言ったが、釜谷(地区の)区長さんは「ここまで来るはずがないから、三角地帯に行こう」と言って、けんかみたいにもめていた>と記されている。

 教頭と教務主任という、学校現場の両責任者が、山に逃げようと主張していたにもかかわらず、なぜ行動に移せなかったのか。この点が、いまだに明らかにされずにいる

 学校の裏山は、ソリ滑りが出来るほど傾斜の緩やかな場所があり、校庭から40秒から50秒でたどり着く。子どもたちにとって、シイタケ栽培の学習でなじみのある場所でもあった

 子どもたちの列は崩れて丸くなり、「大丈夫だぞ」「こんなところで死んでたまるか」などと励まし合っていた。

 この間、A教諭は、校舎の2階に避難が可能かどうか確認しに行っている

 午後3時29分、迎えに来た母親の1人(死亡)が、「子どもと学校にいます。」というメールを夫に宛てて送った。

 町の側溝からは水が噴き出し、堤防からは水があふれ始めた。児童の1人が、学校の前の住民の「津波が来たぞ!」と言った声を聞いた

 午後3時35分過ぎ、教頭先生が「三角地帯(釜谷地区の入り口にある北上川の堤防)へ逃げるから、走らず、列を作っていきましょう」と呼びかけ、子どもたちの移動が始まった。

 なぜ、それまでの裏山〔に避難〕か校庭〔で待機する方が安全〕かの議論にはなかった三角地帯を目指すことになったのか。これも、まだ明らかにされていない。

 津波に襲われる1分ほど前(午後3時35~36分頃か)、子どもたちは校庭のフェンスのすき間から出て、学校脇の道路を左に折れた。三角地帯に向かうには、右に折れて県道に出るのがもっとも単純で短いルートなのに、なぜか、逆の方向に向かった

 校舎から戻ってきたA教諭は、逃げ始めていた子どもたちの後ろについたことを証言している。その頃、学校前を通った釜谷の住民の高橋和夫さんは、大人か子どもかははっきりしないものの、十数人が校庭に残っていたことを覚えている。

 学校脇に建つ釜谷交流会館の前で、学校前の様子を見に行っていた教頭先生が、「もう津波が来ているから、急いで!」と大声をあげて戻ってきた。子どもたちはあわてて、釜谷交流会館裏の駐車場から民家の裏の路地を走った。そこから小さな畑や排水溝のある比較的幅のある通路を右に曲がり、民家の間を抜けて県道を目指した

 県道に出ようとしたところで、しぶきが上がって、黒い津波が堤防を越えてきたのが見えた。前方を走っていた児童たちがあわてて引き返してきて、後方の児童たちは立ち往生していた。

 生存児童の1人、只野哲也君(当時5年生)は、一緒に逃げていた柔道仲間の今野大輔君が倒れるのを見て、ジャンパーの襟を引っ張っていこうとした。しかし、大輔君は動けなかった。

 哲也君は、夢中で山をよじ登ったが、後ろから津波の強い衝撃を受けて気を失った。同じように津波にのまれて、流れてきた冷蔵庫に入って助かった同級生が、体が半分ほど土に埋もれていた哲也君を助け出した。

 雪が本格的に降ってきた。

 結局、山に走って逃げたA教諭と3年生の男児、津波にのまれながら山に打ち上げられて地域住民に救助された1年生の女児の計5人が、津波からの生存者となった。

 空白の51分間を詳細に再現するには、証言や情報が限られているために部分的であるが、本当に追求しなければならない部分が、そのまま残されているのが分かる。

 大川小の教職員は、危険情報も得ていて、逃げる場所もすぐそこにあり、高台へ避難する時間も十分ありながら、なぜ校庭にとどまり続けたのか。その直接的な部分は追求できないないというより、各証言からはそっくり抜け落ち、未だに語る材料がそろえられていない

さまざまな防災の計画が、平成21年度に柏葉照幸校長が同校に就任してからは立ち消えになってしまっていた

③当日、校庭に50分間、待機し続けたのは、誰かからの具体的な指示や命令によるものだったのか、現場での誤った決断のためなのか、はたまた、決められない人間関係のせいだったのか については、市教委側からは、見解が全く示されていない。

 一方、遺族側は、2012年10月28日に7回目の保護者説明会で、独自の調査による避難に関する検証を示し、“極端な事なかれ主義”が蔓延し、影響したと考察した。

<何事もない日々であればさほど問題ではありませんが、今回のような事態では大問題です。あの日、「責任とれるのか」といういつもの判断基準が、(教諭たちの間で)どうしても頭から離れなかったのです。あの日の判断の遅れには、2年間で蔓延した極端な「事なかれ主義」が大きく影響しています

④東日本大震災が起きてから1年7ヵ月以上が経つ。遺族たちはこの間、市教委の事後対応にも苦しんできた。「二次被害だ」「市教委を検証してほしい」という声が、遺族のなかから上がっている

 典型的な問題点は、生存者や帰宅して助かった児童たちへの聞き取り調査のメモを「破棄した」と、調査を担当した当時の指導主事が言い続けていることだ。

 子どもたちと教職員84人の命が失われたという、未曾有の規模の事故なのに、音声録音をしないままの調査に加え、挙げ句の果てにメモを捨てるという行為は、公務員としてはあり得ない

 事実関係を明らかにするという作業が、誠実に、緻密に行われたとは、決して言えないのだ。

 実際に、聞き取り記録や事故報告は、遺族側から、調査の矛盾点の指摘を受けて、変遷を繰り返している

 市教委は、震災から1年以上にわたって、校庭から子どもたちが「避難をした」と説明していた。

 2011年6月4日の説明会では、“避難”開始時刻は、「午後3時25分頃」。それが、2012年1月22日説明会では「午後3時30分頃~」に変わり、1年後の2012年3月18日には「午後3時35分過ぎ」となった

 遺族の追及によって、実際には避難と言えるような実態ではなく、津波に襲われる1分ほど前に「逃げ始めた」といったほうが正しかったことが分かったのだ。

 校庭から避難をしなかった理由については、裏山に倒木があったためとしていたが、それも「倒木があったと思われる」と、市教委は途中で説明を変えた

 また、児童が教諭に向かって「山に逃げよう」と言っていたという児童たちの証言が、調書にはひとつもないのに、説明会での指導主事からの説明の中には出てくるという不審な点もある。

 さらに、重要な資料を、長期間公表しなかったという問題もあった。

 唯一生存したA教諭が保護者宛にメッセージを綴ったファックスを、市教委が公開したのは受け取ってから7ヵ月以上も経ってからだった。また、震災から5日後という直後の時期に、当時の柏葉校長から聞き取った被災状況の調書が存在することが、私たちの情報公開請求で分かったのは、震災から1年2ヵ月が過ぎた2012年5月18日だった

ずさんな調査を行ない、メモを廃棄したとされる当時の指導主事は、処分されることも、間違った公文書の修正文書を改めて作成することもなく、2012年4月、市内の小学校へ校長として“昇格”していった。

⑥また、当時の学校経営の最高責任者である大川小の柏葉照幸元校長も、何の処分も受けないままに平成23年度末で早期退職したという事実も残された。

 発災当時、年休を取っていて学校に不在だった柏葉校長については、安全管理を怠ってきた点など、事前の問題点も多いが、事後対応も不可解だ。

 震度6弱以上の地震が起きれば、たとえ勤務時間外であっても、市内の教職員は全員所定の位置に着かなければならない「第三配備体制」となる。にもかかわらず、柏葉校長が、学校の様子を見に行ったのは、発災から1週間も経ってからだった

 捜索に至っては、避難所から「いってらっしゃい」と遺族を送り出すだけで、一度も加わらなかったという。

⑦津波から生還したA教諭は、2011年4月9日に行われた第1回保護者説明会で、被災の様子を説明した。その証言や、事前に行われた聞き取り調査(2011年3月25日実施)に矛盾点がいくつか見つかっていることから、遺族たちはA教諭に尋ねたいことがたくさんあるという。

 だがA教諭は、その第1回説明会以来、一度も保護者の前に現れていないし、そのことについて、市教委は説明にならない説明を繰り返している。

 休職中のA教諭は、市教委の説明によると、入院はしていないそうだが、指導主事ですら、面会を主治医に止められているという。遺族からの質問書も、主治医が手渡さなかったという。

 ところが、柏葉前校長は、A教諭の自宅近くの路上で、2011年11月に面会していたことを、2012年10月28日の説明会で突然明らかにした。面会していた事実について、市教委も「全く知らなかった」と驚きを隠せない様子だった

 これまで市教委は、ドクターストップで、誰も会えないと説明してきた。それなのに主治医が遺族の前に出てきて説明をしたこともなく、市教委はなぜこの主治医に抗議をしないのかも不思議だ。

連載 第17回(12.12.18)

①遺族の23家族30人が参加した文科省、県教委、市教委、遺族の4者による、〔市教委がしっかりと検証しないので、遺族の要望で文科省が設置することになった〕検証委員会の設置について話し合う円卓会議(12.11.25)は、メディアには非公開で行われた。西日が落ちて辺りが暗くなり始めた頃、合計3時間半に及んだ会議を終えて、遺族たちが部屋から続々と出てきた。

 顔なじみの記者たちの顔を見たとたん、「もうだめだ。事後対応やらないんだもん」といって泣き出す母親や、「異論が言えない雰囲気だった……」「よくわかんねぇ人物が何人もいる」と、呆然とした表情で話す父親たちもいた。皆、表情はこわばり、動揺していた。

「こんなもんでしょ」と、冷静に話す遺族もいたが、文科省の提案を好意的に受け止めた遺族には、出会わなかった。

 真相究明を求めてきたある遺族に、納得したどうか質問すると、

「俺たちの意見を、異論や批判だと思ってくれていない。文科省は、一方的な考えを言っているだけで、なんかもう決まっているような話し方。作業メンバーは、特に信用できる人が1人もいない

 と、不信感をあらわにした。

②検証委員会の事務局として、随意契約での委託先候補になった、株式会社社会安全研究所幹部との関係。

 実は、同社の所長の首藤由紀氏は、首藤委員候補の実の娘だという。

③さらに私たちの調べによると、11人の検証委員のうち数名が、今年度のあるプロジェクトで、共同研究者に名を連ねている。つまり、まさにいま、研究費を共有しあう間柄なのである。

専門家の、血縁や金銭的なつながりは、委員会の客観性や信頼性を根底から損なう。大川小の津波被災事故の検証委員会は、専門家の人選や事務局の選定といった、骨格を作る段階で、すでに偏ったものになってしまった

④これまで真相究明を求めて活動してきた遺族たちは、こう反発する。

 「学校の立地の経緯や伝承が、初めて見た仕様書の中で、いつのまにか検証対象に含められていた。それなのに、〔市教委や校長の〕事後対応は含めないという。検証範囲が矮小化されてしまっていて、もう、何を検証するんだかわかんないね。最初から文科省の人が欲しい答えがあって、それに対応する人材をあてている。やっても意味のない検証をやろうとしているんじゃないかと思ってしまう」(小学校5年生の次女を亡くした紫桃隆洋さん)

 「中立、公正と言っていながら、身内に都合の悪い検証をさせまいとする集まりが、この大川小学校の検証をする事になった。文科省までもが遺族の求めている検証をするつもりがない」(小学3年生の長女を亡くした只野英昭さん)

連載 第21回(13.3.13)

 震災から約3ヵ月の11年6月4日、市教委は第2回保護者説明会を開催。市教委は開始早々に「説明会は1時間だけ」「今後は説明会を設けない」と告げ、時間になると学校側・市教委側全員が途中で退室するという形で打ち切った

 同6月下旬、10年12月から長期不在が続いていた市教育長のポストに、ようやく境直彦氏が就任し、教育長として遺族の家を戸別訪問することを表明する。しかし、現在でも教育長の訪問を受けていない遺族がいる

 市教委は、同年8月~11月にかけて、同小の保護者や当時の様子を知る近隣住民などにも、追加で聞き取り調査を行った。

 同時期、説明会を再開するよう、遺族たちは市教委と水面下で必死の交渉を続けていたが、なかなか開催されなかった 

 不信感が募っていた遺族たちは、情報公開制度を活用して公文書を読み込み始める。そこから、児童への聞き取り調査や、校長が作成した事故報告書などのなかに、事実と違う点をいくつも見つけていった

②12年3月18日に第4回保護者説明会。ここで市教委は初めて、子どもたちが逃げ始めた時間を、津波が襲来した1分前の15時36分頃だったと認めた。

③同3月末、責任を持って対応に当たっていくと表明していた柏葉照幸校長が、突然退職。また、遺族側からの人事凍結依頼に反して、県教育委員会は定例人事を発令し、大川小の事故調査等を担当してきた指導主事は市内の小学校に異動となった。代わって新たな担当となったのは、経緯を知らない着任したばかりの指導主事だった。

連載 第22回(13.5.2)

第2回大川小学校事故検証委員会〔13.3.21/宮城県石巻合同庁舎の大会議室〕

①続いて陳述したのは、当時小学3年生の娘・未㮈(みな)さんを亡くした只野英昭さん(42歳)。同じく学校にいた当時5年生の息子・哲也君は生還している。

 「石巻市の教育委員会は、生き残った子どもたちに聴き取りを行いましたが、実に乱暴で、私の承諾も得ずに息子の聴き取りを行いました。息子が話したこと、聞かれたこと、問題になっている子どもたちが山に逃げようと先生に訴えた言葉ですら、なかったことにされた。息子は指導主事の先生に、確かに、『6年生の男の子が山に逃げようって言っていたようだけど、それって本当?』という質問に、息子は『はい!』と答えたはずだと言っているのに…」

③東北福祉大学総合福祉学部社会教育学科教授の数見(かずみ)隆生委員が「確かに立地の問題にするのではなく、学校の中で教職員集団が子どもを守るために機能していたのかが大事な視点」との見解を示すと、佐藤敏郎さんは、「どういう学校経営をしていたのかを含めて考えていかないと、なぜ避難マニュアルがあれだけ杜撰だったのか、わからなくなる」と同意した。

市教委の聴き取り記録に残された、生存者の証言の食い違い、矛盾、隠ぺい、捏造…。震災直後の2011年4月9日に行われた市教委の最初の保護者向け説明会のときから、こうした数々の疑惑に対し、問題の本質や責任の所在はうやむやにされてきた。同年6月の2回目の説明会では、1時間ほどで話し合いが一方的に打ち切られるなど、事実の解明はいまに至るまで先送りされ続けた。

 そして、石巻市の行政も、遺族たちから寄せられる疑問の声に真剣に向き合おうとせず、事実の解明に向けて指導力を発揮することはなかった

 結局、国が乗り出して、このような検証委員会を設置せざるを得なかったところに、教育委員会という組織の抱える深い闇がある。

◎連載 第23回(13.7.5)

 当然ながら、遺族たちは会合で、委員たちの資料を読み込んだうえで専門知識を生かした、真剣な議論を傍聴できるものと期待していた。ところが、実際の2回目の会合で委員たちは、何をどう調べるかを話し合っただけだった。

そんな議論以前の状態にあるにもかかわらず、今月7日に開かれる次の会合が、もう中間報告となってしまうことに、遺族たちが戸惑うのも無理はない。

連載 第24回(13.7.12)

 「市教委の対応が2次被害なら、検証委が3次被害になりそう。だから期待しない」

 遺族の中には、そう話す母親もいる。

連載 第26回(13.9.19)

 震災から3ヵ月後の6月4日に行われた2回目の説明会の議事録には、一斉に部屋を出ていく市教委幹部や大川小幹部に向かって遺族たちが声を上げた、こんなやりとりが残されている。保護者数名 「今後説明会はあるんですか? これで説明会は終わりですか?」
大川小教頭 「説明会は予定しておりません。これで終わりです」

呆気にとられる遺族たちを市教委が置き去りにした第2回の説明会での出来事を、遺族の中には「スタコラサッサ事件」と呼ぶ人もいる。この「事件」は、多くの遺族を精神的にさらに追い詰め、市教委に対する不信感を決定的なものにした。

連載 第27回(13.10.1)

①「検証委員会を傍聴しても、一切51分間の様子を議論していない。いつ話してくれるんだ?少しでもいいから、あの子たちの様子をもっともっと知りたい。本当に、(津波に)流されるまで、様子を知りたい。それなのに、なかなか(検証委が)核心に触れてくれない」

 9月30日の午前、遺族のうち6人の父親が文部科学省を訪れ、義家弘介政務官に意見書の入った封書を手渡した。

<なぜ校庭に居続けたのか、遺族が知りたいのはそれだけである。51分間の真実を明らかにして欲しい>

 下村文科大臣宛の意見書の見出しには、太字でしっかり、そう綴られている

②検証委の会合は公開だが、実際にはほとんどの議論が非公開のメールや別会合で行われている。核心に迫る内容は途中の段階では全く共有されず、調査の進捗も知らされない。

当連載第25回で紹介したとおり、大橋調査委員は遺族から数々の指摘を受けた。大橋委員は追加調査で、事実上の訂正を行っている。しかし、表向き「訂正」として説明されることはないままだ。

 そもそも〔津波の振る舞いについて調査し、検証委で報告した〕大橋調査委員は、心理学者である。津波の振る舞いについて調査・報告をするには見識を疑わなければいけないし、津波工学が専門の首藤伸夫委員(東北大名誉教授)がいるにもかかわらず、全く違う分野の人物が誤った解釈を平然と公表するような状態では、委員会運営に批判が向くのは当然だろう。

連載 第30回(13.12.4)

11月30日に行われた第7回検証委会合

①この会合で明らかにされた中で特に注目されたのは、現場にいて児童4人とともに生き残った、現在休職中のA教諭の供述だ。

 検証委は、これまでA教諭に対して複数回、計約5時間にわたる聞き取りを行ったことを認めた。

 検証委によれば、聞き取りにあたって、A教諭は自身で書いた手記を提出。主治医の立会いの下、1回につき最長3時間弱の聴き取りを行ったという。

 津波が来る直前、A教諭は、校舎内の2階に避難できる場所の目安を考えて、渡り廊下から体育館に移動。体育館入口から校庭に出た。

 その際、児童の移動はすでに始まっていて、先頭は学校の向かいにある釜谷交流会館の駐車場付近、最後尾が校庭のタイヤの遊具付近にいて、移動している児童以外は、校庭に人影はなかったとしている。

 A教諭は、避難する列を小走りで追い、付近にいた成人(特定できない)に「どこへ向かうのか?」と聞いたところ、「三角地帯へ移動することにした」という。

 列の最後尾付近にいたA教諭は、釜谷交流会館の駐車場から出た辺りか、その少し先辺りにいた。少し前まで走って先に進んでいた児童らに大声で「こっちだ、こっちた!山だ!山だ!」と声をかけ、これに気づいた数人の児童が山へ走り出したのを見て、A教諭も叫びながら山へ駆け上がったとしている。

 2011年4月9日、石巻市教委の第1回保護者説明会で、A教諭は「山の斜面についたときに杉の木が2本倒れてきてはさまる形になり、波をかぶった」などと証言しているが、このときの報告とは食い違っている

 その後の遺族との意見交換会の中でも、遺族から「A教諭の上着のポケットに入れていた携帯電話が(津波にのまれて)ぬれたら、(震災4日後の)3月15日に当時の校長へメールを送ることはできない。A教諭の証言は矛盾していて、科学的に解明することは難しくないと思う」などと疑問が出された。

 これに対し、検証委員会は「A教諭が津波にぬれたかどうかについては、まだわからない」としている。

 また、遺族たちが石巻市教委側から何度も受けてきた「地震直後、裏山の木がバキバキと倒れるような音がした」という説明についても、検証委は「正確ではなかった」と認定した。

 石巻市教委は、2年8ヵ月にわたってA教諭に面会できない事態が続いていることについて、今年11月23日の保護者説明会でも、主治医に確認しているものの「まだA教諭に会えるような状況ではない」との説明を受けているとしてきた。

 しかし、検証委は、「ある委員の個人的人脈と様々な働きかけにより、A教諭に会って聞き取りすることができた」という

 では、直属の上司である市教委が、なぜ本人に会うことができないのか。担当者にどのような努力をしてきたのか聞いてみると、こう説明した。

 「検証委員会がA教諭にお会いしたという話は、一昨日(の検証委会合で)、初めて聞いた。これまで我々も努力してきたが、お会いできるような状況ではないという理由で断られ続けてきた。今後、一昨日の検証委員会を踏まえ、主治医に会えるかどうかを改めて確認したい」

連載 第32回(13.12.25)

第8回検証委会合(13.12.15)

問題なのは、なぜ「教職員集団として意思決定できなかったのか」ということだろう。そもそも、事実情報の見出し上ではいつのまにか「3次避難」したことになっているが、「組織的な避難ではなく、事実上、津波に追われての移動だ」と主張する遺族との間で「避難」なのか「移動」なのかの議論が、まだ決着したわけではない。実際、校庭からの移動の際、<児童を引き取りに来る保護者への対応のため、教職員1名を校庭に残したとの証言がある>としており、「校庭での引き渡しが継続中だったのではないか」との見方もある。

 さらに、児童の避難先や避難経路の選択についても<少なくとも地域住民との相談の上で決定されたものと推定される>と分析する。しかし、どのような地域住民と相談したのか、当時の教職員同士のやりとりや判断の状況については、一切触れられていない。しかも、遺族からは「地域住民が、釜谷交流会館裏の袋小路を避難経路に選択することは不自然で、あり得ない」と疑問の声が上がる。。

連載 第35回(14.1.29)

 19日の第9回検証委会合で公表された「最終報告案」を踏まえた遺族向けの報告会(石巻市内/14.2.9)

 「避難が遅れたことも、あのルートをたどった問題も、2年前からわかっていたこと。遺族が専門家に求めているのは、なぜ避難が遅れ、なぜあのルートをたどることになったのかを検証すること」

 この日の報告会でも、こうした意見を、複数の遺族が様々な表現で訴えた。

連載 第36回(14.2.14)

事故検証委員会の児童遺族への最終報告書案に関する報告会(石巻市内/14.2.9)

①室﨑委員長 「校長先生がいなかったことが、この場できちんと対応できなかった一因と考えられるのではないか」

遺族 「あの場所での、子どもたちや先生たちの様子をきちっと調べないといけない。大川小が動けなかった理由は、そこにしかないんじゃないか。それは関係ないですか? 重要じゃないですか?」

室﨑委員長 「基本的には、わからないことは書けないと判断している。教員集団のあり方は重要だが、学校管理下で起きた学校の責任は、我々の今までの分析でも明確になっている。それをさらに細かく分析する必要はない」

遺族 「水位計で津波の到達時間を算出するよりはよほど大切なこと。再発防止を考えているんですよね? 教職員集団、組織のあり方は、無関係なんですか? それこそ大事なんじゃないですか?」

室﨑委員長「(現場に)自由に意見を言える雰囲気がなかったということですよね

遺族 「それはなぜだと思います?

室﨑委員長 「色んな理由があると思う。校長がリーダーシップで、物を言いやすい環境を作っていなかったのかもしれない。最終的にはリーダーシップの問題」

遺族 「なぜそういうリーダーシップの校長先生が大川小にいたのか? なぜ、まとまらない教員集団、意思決定できない組織になってしまったのか? たまたまか?」

室﨑委員長 「たまたまではないと思う

遺族 「 『山へ』と言った子どもも保護者も先生も居て、もちろん時間も方法も情報もあった。もう一度聞くが、このようなずさんな備えになったのはなぜなのか?」

室﨑委員長 「学校の運営のあり方については結論を出しているつもり」

遺族 「数見委員が、以前校長の人事についてかなり問題があると言っていたが、どの程度突っ込んで調べたのか?」

室﨑委員長 「問題として認識しているが、調べていない」

遺族 「どうしてですか?」

室﨑委員長 「校長の人事にはリーダーシップや危機管理の重要なファクターが必要だと思っている」

遺族 「そのファクターがない人物が選ばれた」

室﨑委員長 「断定できないが、現実がこうなんだからその通りです」

遺族 「そういう人事がされたことが問題だと明記してもらってもいいですか」

室﨑委員長 「人事の問題なのか、個人の資質の問題なのか。関連はあると思うが」

遺族 「校長のリーダーシップが原因だとおっしゃいました。それを突っ込んで調べなければならない」

◎連載 40回(14.5.19)

第1回弁論(14.5.19)

 只野さんは、学校側や市教委の事後対応にも問題があったとして、こう指摘する。

学校側と市教委側が最初に行ったのは、事実隠しと一方的な事態の収束でした。唯一の生存教諭であるA先生を3年以上という長期にわたって不自然な形で隠し通し、子どもたちや教職員への聞き取り調査のメモを廃棄。柏葉校長は根拠もなく避難開始時刻を津波襲来時刻の十数分も前にした事故報告書を県教委に提出しました

 最も許せないのは、現場で悲惨な出来事に遭い、現場ですべてを目撃していた息子、哲也の証言を『子どもの記憶は変わるもの』と現大川小学校の千葉校長が勝手に捻じ曲げたことです。

 A先生の証言内容も矛盾だらけです。子どもたちが慕っていたA先生が、子どもたちを裏切るような嘘ばかりの証言をしていることに怒りを覚えます。

 震災直後においては、校長は避難所にいながら被災現場に足を運ぶこともしませんでした。やっと1週間後、現場に来た時には捜索活動に合流すると思いきや、校長室の金庫を開ける事に終始し、金庫が開いた瞬間、何か分からぬ資料を隠すように急いで車に詰め込み、立ち去りました。あの時、私たち保護者は自ら必死に手で土を掘り起こし、何日も子ども達を探し続けていました。私たちは校長に泣きながら叫びました。『子どもの命よりも、その金庫の中身が大事なのか!』という言葉を…。

 石巻市教委の異常さに気付かず、震災後も大川小の事を放置し続けた宮城県教委も許せません!あんな杜撰な防災体制で事故を誘因した柏葉校長を配置した県教委の人選は異常です」

*14.4.15

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