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皇国史観

                            Wikipedia<皇国史観>

皇国史観とは次のようなものです。

 イザナギ・イザナミの男女二神が日本の国土をつくった。そこに天照大御神あまてらすおおみかみを祖神とする神が降臨し、紀元前数世紀ごろから、その子孫である神武天皇を初代とする万世一系の天皇が日本を治めてきた。こうして日本は「天として治める」(皇国=神国)として歴史を刻んできた。1940(S15)年は皇紀2600年(神武天皇が即位して2600年目の年)である。神国たる日本においては、天皇は、大嘗祭だいじょうさい<つまり、天皇霊(倭魂やまとだましい・稲魂いなだまともいう)なるものを付与することで天皇を神格化して天皇に倭やまと(=日本)を治める資格を与える祭祀>によって現人神あらひとがみとなり、大嘗祭を除けば最重要の新嘗祭(豊作を祈る祭祀)をはじめとする幾多の祭祀を執り行うことで、日本は、瑞穂みずほの国<つまり、 稲(コメ)を最重要とする沢山の山の幸・海の幸がもたらされる豊かな国>となる。その国で、天皇は親で人民は赤子せきし(恵み深い天皇の子)として日本民族は全体で家族をつくり、多くの恵みをいただくことで日本人は、臣民(皇国の家臣としての国民)として幸せな歴史を送ってきた。日本人がこれからも幸せであるためには、赤子として天皇を絶対信仰することでその御恩に報い、いざというときは、天皇のために命を捧げなければならず、聖戦(現人神がお治めになる「お国」を守る聖なる戦い)は臣民が最後の1人になるまで戦い続けなければならない。以上のようにして、天皇が神としてお治めになる豊かな瑞穂の国で暮らすからこそ日本民族は幸せな歴史を歩んでこられたし、これからも、日の丸の旗を象徴とする神国=皇国での君が代(天皇が治める世)が、千代に八千代にさざれ石が巌いわおとなりて苔の生すまで続けば、日本民族も幸せな歴史を歩んで行ける。

 かかる皇国史観については、説得性を持たせる(日本人の心に浸透できるようにする)ために次の2つの工夫がされています。

  ➀古来人々に伝えられて来た神話・伝承を国内向けに天皇の正統性を訴えるためという意図にそって修正して記録した古事記と、古来人々に伝えられて来た神話・伝承を外国向けに日本という国の正統性を主張するためという意図にそって修正して記録した日本書紀の中に記載された神話・伝承の記述を歴史の記述とみなして皇国史観はつくられ、戦前の日本人は、こうして修正された神話・伝承を歴史的事実であると教えられた(ご参照)。

  ②「日本は稲穂が豊かに実る『瑞穂みずほの国』であり、稲作は日本文化の母、農業は国体の一部」<>というファシズム反対派も否定できない要素が基本的内容として盛り込まれている。  これについては、この論考(ミラー)が参考になる(ただし、万世一系の皇統が連綿と続いてきた、を歴史的事実として語っているのは誤りなのでは)。

 皇国史観は、戦前につくられた、イデオロギー(特定の政治的な信念・態度・感情に人々を立たせていく思想)であり、休眠中だった天皇制を復活させた明治維新以後、それまでに存在していた、記紀(古事記・日本書紀)に記された天皇中心の世界観を基にした複数の思想を下敷きに、天皇を中心とした中央集権的国家づくりが構築されていくなか、それを精神面から支えるものとして、下記のことが、日本人優越主義(天皇をいだく日本人は他国民・他民族より優れている/これは排外主義や他民族支配正当化理論と表裏をなす)を伴いながら、記紀神話を歴史事実とする学者の説を採用しながら、実施されていく過程で成立していきました。

 国家神道にもとづく国民教化運動の中心を担うための教部省の設置<1872(M5)年>。軍人勅諭<1882(M15)年下賜>。大日本帝国憲法<1889(M22)年公布>と教育勅語<1890(M23)年発布>による天皇の神格化の制度化。それを教育面で普及させるための国定教科書の作成<1903(M36)年>。万世一系の至高の権威である天皇が統治する政治体制が日本の国体(国家体制)であるということをはっきりさせようという「国体明徴運動」<1930年代半ば>。「国体の本義」の発行<1937(S12).3 発効>。「国民精神総動員運動」<1937(12).9 開始>。文部省教学局による、国民道徳(国家が定める国民の正しい生き方)の指標たる「臣民の道」の発行(1941(S16).7)。

 端的に言えば、皇国史観は、国家神道を土台とし、教育勅語で基礎付けられ、「臣民の道」()で完成したものといえます。

  臣民の道」・・・米英との戦争に備えて、国民は国家の意にそって動く駒であることを詳細に定義付けた。「私生活は国家に関係なく、自己の自由に属する部面であると見なし、私意をほしいままにするがごときことは許されないのである。一椀わんの食、一着の衣といえども単なる自己のみのものではなく、また遊ぶ閑ひま、眠る間といえども国を離れた私はなく、すべて国とのつながりにある。かくて我らは私生活の間にも天皇に帰一し国家に奉仕するという理念を忘れてはならない」を真髄(神髄)とする。

 教育勅語を中心にして皇民化教育(児童生徒を皇国史観を身につけた臣民としていく教育)が強力に推進されました。その結果、意識が皇国史観で覆われた国民が、ファシズム体制を自発的・自主的に支えていくようになりました。

 皇民化教育の一環として、靖国神社(お国のために戦った戦死者を英霊として祀る)についても教えられました(英霊は、数えるときの単位は神を数える単位と同じ柱はしらが用いられており、神と同じ扱いを受けています)。

 皇国史観は、神話に記された神話(古くから伝わる物語)であるはずのものを歴史的事実とし、人間であるはずの天皇を神とし、「人民は天皇の赤子せきし(恵み深い天皇の子)」という国家を家族のようなものとするものでした。これらを疑い、それに異議をはさむことは(天動説に異議を唱えたガリレオのようになるので) 許されませんでした。そのため、幼きころから皇国史観を「教育」された日本人は、何が真実か、どうするのが正しいことかなどを考える態度が身につかない(与えられた思想・考え方・知識・命令等をそのまま受け入れていく)人間、つまり、思考停止」の人間になっていきました。皇国史観は、いわば日本人を「思考停止」させる装置だったのです。

 以上の結果、意識が皇国史観で覆われた兵士が「お国のために死んできます」「天皇陛下のために 死んできます」「死んで(も犬死ではなく英霊となれるから)靖国で会おう」といいながら万歳の声に送られながら戦場に行き、「天皇陛下万歳!」「(これで)靖国に行ける!」といいながら戦死していき、そのまま土に埋もれずに、骨となって帰国できれば、「(英霊となれて)おめでとうございます」「お国(天皇陛下)のためにお働きいただき、ありがとうございます」との、意識が皇国史観で覆われた国民の声に迎えられました。これが、教育勅語・臣民の道」 の規定に沿った日本人の正しい生き方でした。つまり、日本人の正しい生き方は「戦争で死ぬ」ことだったのです。

 日本の軍隊は、皇国史観に覆われた「思考停止」の軍隊となって正しい判断のできない、日本民族に死に行く道を用意するものでした。つまり、自民族の生存を守ろうとする軍隊ではなかったのです。皇国史観に覆われた「思考停止」の国民も、「お国」(これは、本当は天皇制ファシズム国家のことでしたが、それがわからず、恵み深い天皇を親とする家族のようなものと思っていました)を守るために、一人残らず命を捨てる覚悟でした。こうして、日本民族は絶滅への道を進んでいったのです。

 かかる、他国にはない自民族絶滅を用意する皇国史観はなぜ生まれたのでしょうか。2つの理由があります。

 1つ目は、江戸時代二百数十年にわたって日本の支配層には、戦国時代に形成された生命を軽視する精神構造を受け継いで、「切り捨て御免(武士以外の者は即座に殺してもかまわない)」「武士道とは死ぬことと見つけたり(武士は死んでなんぼ)」という、日本民族すべて(武士とそれ以外、ただし天皇と皇族は除く)の生命を尊重しない(軽視する)という精神構造が強固に構築されました。その精神構造を受け継ぐ薩長土肥などの武士が明治政府をつくることで、その精神構造も明治時代以降の支配層にも受け継がれていったからです。

  なお、それは、「侍(いつでも命を捨てる覚悟のある潔い勇者)ジャパン」という言葉を意気がっていう人もいるように、いまでも1部の日本人に受け継がれています。

 2つ目は、こちらの方がより大きな理由ですが、日本には、他国にはない、古代から続く天皇制があるからです。他国にも王制や帝政がありますが、他民族の侵入等により王朝は交代してきました。日本にも実は王朝の交代はありましたが、島国のため、それは他民族の侵入によるものではなく、また、それについての他民族からの干渉もなく、真実を隠す現在でも、いわゆる天皇陵の発掘は厳に禁止されていますことで万世一系であると誤魔化すことができました(イギリスも島国ですが、大陸から泳いで渡れるほど近いので他民族の侵入や他民族からの干渉が少なくありませんでした)。そのため、日本人の意識には、日本民族は「万世一系の天皇があっての民族」ということがインプットされており、「万世一系の天皇」が消滅することは、即、日本民族の消滅(絶滅)でした。こうして、日本では、王朝の交代という観念は生まれず、天皇・皇室と民族は一体という観念が意識内に強固に形成されていたからです。

  なお、天皇・皇室と民族は一体という観念は、戦争になれば、「敗戦(降伏)=天皇・皇室の消滅=日本民族の消滅」という観念となり、それが日本人の意識を支配するようになり、戦争途中で降伏することは、日本民族の消滅を意味するので、日本人には思いもよらないことだったのです。そのため、アジア太平洋戦争末期の1945年8月、9日未明のソ連の対日参戦によりやっと降伏を決意した日本の支配層が、翌日、国体護持(天皇制維持)を条件とする降伏受諾通告をし、ソ連の日本領土占領拡大が進展しないうちに戦争を終わらせたい米英中は、日本の国体護持を条件とする降伏通告を受諾し、15日に 終戦の詔がラジオで放送されても、戦争終結について理解できない国民や、なおも戦い続けようとする将兵が多かったのです。また、ソ連の対日参戦がなかったり、国体護持を条件とする降伏受諾通告が拒否された場合は、さらに民族絶滅への戦争は続いていたのです。

  皇国史観が、日本型ファシズムの精神的支柱となったことについては、日本型ファシズムと改憲をめぐる武力行使なき内戦をご参照ください。

  ご参考・・・皇国史観は、戦後史学においても「実証性」の装いをまとった「戦後型皇国史観」として継承された。ミラー 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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